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活動目的

当団体は、フィクトセクシュアルや非対人性愛について、当事者の声を記録すること、および当事者の立場と学術的知見の双方にもとづいた情報を提供することを目的としています。

フィクトセクシュアルのプライドフラッグ

主な活動内容

・当事者の声の記録(同人誌の制作・頒布等を行なっております)

・当サイトやSNSでの情報発信

フィクトセクシュアル・パースペクティブとは

フィクトセクシュアル的な観点のこと。フィクトセクシュアルを自認する人々の見方だけでなく、より広く、対人性愛中心主義を問い直す視座のことを指します。当団体はこのような視座から活動していきます。対人性愛中心主義については用語解説のページをご覧ください。

団体概要

名称:Fictosexual Perspective

主催:松浦優(ご依頼等の連絡先はhttps://researchmap.jp/mtwrmtwrをご覧ください)

Twitter (X): https://twitter.com/FictPerspective

活動開始:2024年2月18日

メインコンテンツ

フィクトセクシュアルに関する質問はこちら

(最終更新日:2025年11月3日)

フィクトセクシュアルの歴史

フィクトセクシュアルという言葉はどのように広まったのか。そのなかでどのように意味やイメージが変わってきたのか。この記事では、「フィクトセクシュアル」という言葉の歴史を(現時点で分かった範囲で)紹介していきます。

広い意味での「アセクシュアル

「fictosexual」という言葉はアセクシュアルのコミュニティから広がったと考えられています。現時点で確認できるもっとも古い用例は、オンラインのアセクシュアル・コミュニティAVENの掲示板で、TeddyMillerという投稿者が2005年8月16日に投稿したものだとされています*1。この投稿者は、性的空想やマスターベーションはするが現実での性交渉はしないという人物で、そのことを表すためにフィクトセクシュアルという用語を作ったと書いています*2

なぜアセクシュアルのコミュニティからこの言葉が出てきたのか。その背景には、アセクシュアルをどう捉えるかという考え方が関わっています。アセクシュアルは「他者へ性的に惹かれない」という意味ですが、人によっては「性的に惹かれることがまったくないわけではないけれど、アセクシュアルの人とかなり近い感覚がある」という人もいます。つまりアセクシュアルか否かはグラデーション的なものなのです。そしてコミュニティのなかでは、そうした「アセクシュアル寄り」の人々もまた、広い意味で「アセクシュアル・コミュニティ」のメンバーに含まれています。「(総称としての)アセクシュアル」という大きな傘の下に、サブカテゴリーとして、狭い意味でのアセクシュアル(性的に惹かれることがない)やデミセクシュアル(情緒的なつながりができた相手のみに性的に惹かれる)などが含まれる、という発想です。そうしたアセクシュアルのサブカテゴリーのひとつとして、「現実の他者には性的に惹かれず、架空の存在のみに惹かれる」ことを指す「フィクトセクシュアル」が出てきたのです。

また、「他者へ性的に惹かれない」というアセクシュアルの定義にも注目すべきところがあります。ここで言う他者を「他の人間」つまり現実の人間と捉えれば、架空の存在のみに惹かれる人も(広い意味で)アセクシュアルに含むことができます。実際、架空の存在のみに性的に惹かれる人は、実生活上の人間関係において性愛を望まないということで、アセクシュアルの人と共通の経験をすることが珍しくありません。そのような背景もあって、フィクトセクシュアルがアセクシュアル・コミュニティの一員として認識されるようになりました。

このことはプライドフラッグからも見て取れます。フィクトセクシュアルのプライドフラッグとして最もよく知られているものとして、2015年に制作された以下の画像があります*3。黒とグレーと紫のストライプを背景に、中央にピンクの丸が描かれています。この背景のストライプで使われている色は、アセクシュアルのプライドフラッグと同じ色で、「(現実の人間に対しては)アセクシュアル」ということを意味しています。そしてピンクの丸は、フィクションの世界へとつながるポータルを表しています。まさにアセクシュアルのサブカテゴリ―としてのフィクトセクシュアルを表すものとして、このフラッグは作られているのです。

フィクトセクシュアルのプライドフラッグの画像

ちなみに、フィクトセクシュアルに言及した最古の学術論文は、2017年に『Archives of sexual behavior』誌に掲載された論文「Sexual Fantasy and Masturbation Among Asexual Individuals: An In-Depth Exploration」です*4。これはアセクシュアルの人々の性的空想や自慰について調査した研究ですが、そのなかで、アセクシュアルを自認しつつフィクトセクシュアルやフィクトロマンティックを自認する人もいることが、AVENの投稿をもとに言及されています。

日本語圏への輸入

2017年頃になると、フィクトセクシュアルという言葉が日本語圏でも使われるようになります。現時点で確認できるもっとも古い事例は、2017年7月29日に松浦優が投稿したブログ「Aセクも多様です――Aセクシュアルの自慰と性的空想に関する近年の研究動向(後編)」です*5。この記事では、先ほど触れた『Archives of sexual behavior』誌の論文が紹介されています。つまりこの時点で、アセクシュアル・コミュニティでの用法が輸入されたと言えます。

日本でこの言葉が広まる最初のきっかけとなったのが、荻野幸太郎のTwitter(現X)への投稿です。これは渡辺真由子『「創作子どもポルノ」と子どもの人権:マンガ・アニメ・ゲームの性表現規制を考える』(後に剽窃行為が発覚し絶版)の発売を受けて、2018年3月16日に投稿された連続ツイートです。長くなりますが、とても重要な文章ですので引用しておきます。

絵や記号や物語を性的対象にする人々への敵意を煽る本が出版されるようです。特に中学生や高校生の思春期のfictosexualなどの子どもたちが、学校や家庭、地域などで孤立することのないよう、適切な情報発信に努めていく必要があると思います。

絵や記号や物語が性的対象の大学生・大学院生たちからは、中学生や高校生の頃が、ちょうど「非実在都条例」や「なくそう子どもポルノキャンペーン」の時期で、本当につらい思いをしたという話をたくさん聞きました。

10代の自分のセクシュアリティについて模索する彼らの大切な時期は、「まるで世界中の人たちから、自分がペドフィリアだと自白するよう脅されているように感じた」、「ユニセフや都庁のような権威ある組織から、毎日毎日テレビや新聞で攻撃されてるようで、何をしていても楽しくなかった」そうです。

そんな暗黒時代を繰り返してはいけません。私たち責任ある大人が、絵や記号や物語を性的対象にするセクシュアリティの子どもたちに向けて、「君たちは異常者でも犯罪者でもない」と寄り添っていく姿勢を示す必要があると思います

性的対象が他人の身体ではなく概念や物語である人々のセクシュアリティをポルノ消費と決めつけ貶め、刑事罰の提言によって脅し続けることが、いったい何をもたらしたのか、その取り返しのつかない加害に、他人の身体を性的対象とするマジョリティの側こそが、真面目に向き合わなければならないはずだ。 *6

マンガやアニメなどの性的創作物に対する規制は、単に「表現の自由」の問題であるだけでなく、セクシュアリティの問題である――。そのことをいち早く(東京都「非実在青少年」条例の問題の頃から!)理解していたのが荻野さんです*7(この経緯の詳細は荻野さんのnote記事 私が「表現の自由」の仕事をするようになった理由|荻野幸太郎 もご覧ください)。この問題提起のなかで、フィクトセクシュアルという言葉が用いられたのです。

また、「対人性愛」という言葉が使われ始めるのもこの時期です。性をめぐることがらについて、対人性愛を基準とする枠組みでジャッジするのは、マジョリティの横暴ではないのか。性的創作物規制は、現実の人間に性欲を向ける人々による責任転嫁ではないか。そうした問題意識から、それまで「当たり前」とされてきたマジョリティのほうに問いを投げ返す言葉として、対人性愛という言葉が出てきたのです*8

さらに対人性愛の問い直しは、アセクシュアルからの問題提起とも呼応するものです。対人性愛を基準とする価値観(対人性愛規範)に対する批判は、「誰もが性的あるいは恋愛的な関係を実践するものだ」という固定観念への批判でもあるため、アセクシュアルの立場からの問題提起と大きく重なるものです。また、日本でもフィクトセクシュアルの人が「現実ではアセクシュアル」という言い方で自分を説明するケースが確認できます。つまりこのとき、フィクトセクシュアルという言葉は、対人性愛を基準とする枠組みのもとで生じる差別や周縁化を批判する、という文脈で広まったのです。

その後、性的マイノリティに関する発信活動をしている媒体でも、フィクトセクシュアルが散発的に取り上げられました。なかでもパレットークが、フィクトセクシュアルの経験を扱ったマンガエッセイを2つSNSに投稿したほか*9、書籍『マンガでわかるLGBTQ+』で「フィクトセクシュアル」を「2次元の相手に性的欲求や恋愛感情を抱く人」と解説しており、これを通してこの言葉を知った人も一定数いるのではと思います。

キャラクターとの「結婚」というイメージ

その後、フィクトセクシュアルという言葉が大きく広く知られるきっかけとなったのは、2020年8月6日に「ねとらぼ」に投稿されたウェブ記事です。この記事では「架空のキャラクターを「夫」として生活する」女性が「フィクトセクシュアル(二次元性愛)」として取り上げられています*10。これがYahoo!ニュースに転載されることでSNSで広く拡散され、フィクトセクシュアルは架空のキャラクターと結婚する人だというイメージが広がりました。

これをきっかけに用語が知られるようになったことで、フィクトセクシュアルを自認する人がさらに出てきます。その一人が、いわゆる「初音ミクと結婚した人」として知られる近藤顕彦です。彼が結婚式を行ったのは2018年ですが、当時は用語が知られていないこともあり、フィクトセクシュアルとは名乗っていませんでした*11。「ねとらぼ」の記事が出て以降、彼もフィクトセクシュアルを名乗るようになり、その後の彼に関するメディア報道を通してフィクトセクシュアルという言葉が広まることになりました。

かくして2020年頃から、フィクトセクシュアルは「恋愛」や「結婚」というイメージと強く紐づけられるようになります。具体的には、フィクトセクシュアルといえば架空のキャラクターを「パートナー」とする人々のことだ、というイメージが強まっていきました*12。この流れのなかで、フィクトセクシュアルという言葉が必ずしも「アセクシュアル」というニュアンスを持たずに使われることが増えてきます。つまり、架空のキャラクターに「本気」の恋愛感情を抱いている人ならば、現実の人間へ性的に惹かれることのある人でも、この言葉を名乗るようになってきたのです。フィクトセクシュアルのイメージが「恋愛化」された、と言えるでしょう(この傾向は英語圏にもおおむね共通するように思われます*13)。

「結婚」「恋愛」というステレオタイプへの注意

ここまで、フィクトセクシュアルという言葉の初出からスタートして、現在の状況までをざっと見てきました。もともと「アセクシュアル」のサブカテゴリーとして広まった言葉が、対人性愛を基準とする価値観や固定観念対人性愛規範)への批判を伴いながら日本に持ち込まれ、その後キャラクターとの「結婚」や「恋愛」というイメージと結びつけられるようになってきた、と言えます。

現実の人間以外の存在に「本気の」恋愛感情を抱くことに対しては、依然として根強い偏見があります。この問題は、フィクトセクシュアルに対する差別の問題として今後取り組んでいかなければならない重要な論点です。

しかし同時に忘れてはならないのが、「恋愛は誰もがしたいと思うものだ」とか「恋愛は他の関係性にはない格別な価値がある」という固定観念がもたらす問題です(こうした社会通念を恋愛伴侶規範と言います)。現在の状況は、ある意味でフィクトセクシュアルが「恋愛」や「結婚」と結びついたものとしてステレオタイプ化されているとも言えます。こうした状況は、「恋愛」や「結婚」に関心のないタイプのフィクトセクシュアルを不可視化するものであり、当事者にとっては、自身のセクシュアリティについての自己理解を阻害することにもつながります。この点について、『Fictosexual Perspective 2024』に収録された当事者の文章を紹介しておきます。

 今となっては、自分がずっと前から、アセクシュアルで、アロマンティックな、フィクトセクシュアルであったのだと理解することができている。今も昔も、恋愛とセックスは(飲酒と同じように)私にとって生活圏外の他人事で、自分が誰かとそうすることなんて考えもしない一方、特定の文法で描かれた二次元ポルノを私は愛好していて、それを鑑賞し、また時にそれでマスターベーションすることは生活の一部分になっているのだ。けれども、多くのセクシュアルマイノリティの語りに見られるように、自分にこういったラベルを与えるのには、相当な時間がかかった。長い間、私は自分のことを、二次元ポルノ中毒で、拗らせた、異性愛者のオタクなのだと思っていた。

 マスターベーションが、そしてマスターベーションのみが自分の性生活を構成しているという事実が、私がセクシュアリティに関して持っていた誤解と相まって、自分自身についての理解を遅らせることとなった。アセクシュアルを「性欲がない」程度のこととして捉えていたために、マスターベーションをしている自分がアセクシュアルであるとは露にも思わなかった。また、キャラクターとの結婚を公表する人々の語りを通じて、「フィクトセクシュアル」という用語も知ってはいた。しかし、ほとんどの場合、私は色々なキャラクターに性的に惹かれてはマスターベーションをしている「だけ」(!!)であるために、率直に言って、私はフィクトセクシュアルを名乗るには俗っぽすぎるように思われた。

 Twitterにて流れてきた学術的な論考をきっかけに、フィクトセクシュアル、アセクシュアル、アロマンティック、あるいは社会で共有されている恋愛と性愛に関する物語の非自明性について学ぶ中で、これらの誤解はゆっくりと解消されていった。アセクシュアルを特徴づけるのは、「他者に対して性的に惹かれない」ことである。何かを想ってマスターベーションするのは好きだけれども、私が性的に惹かれるのは架空のキャラクターだけだから、私は他者に性的に惹かれないアセクシュアルだ。また、社会の期待するあるべき恋愛と性愛の形がどうであれ———即ち、生身の人間同士で、一対一で、恋愛しつつセックスし、セックスしつつ恋愛していく物語がどんなに理想とされていようとも———私は二次元キャラクターに性的に惹かれるのだから、フィクトセクシュアルなのである。(そして、他者に恋愛的にも惹かれないため、アロマンティックでもある。自分がフィクトロマンティックなのか、そうでないのかについては、正直まだよくわからない)

*14

「愛」というのは、多くの人がなんとなく望ましいと感じるものでしょう。「愛し合う二人の関係なら、それが人間同士だろうと人間とキャラクターの関係だろうと、同じく尊いのだ」という発想は、ある意味で世間的にもウケがよいと思います。しかしそのとき見落とされるのが、「性的なことがらを人間関係(≒親密関係)のなかで行う」というモデルに当てはまらない人々の存在である、ということを忘れてはいけません(それはちょうど、「恋は誰もがするもので、その相手がたまたま異性ではなく同性だっただけだ」という同性愛擁護が、暗にアセクシュアルの存在を否定してしまってきたのと同じ問題です)。

さらに言えば、「対象が現実の人間だろうとキャラクターだろうと関係ない、性愛は性愛だ」という発想にも注意が必要です。こうした発想では、「人間」と「キャラクター」が異なる存在物であるということの意義や効果が無視されてしまいます。そしてそのとき、対人性愛規範に対する問題提起もまた無視されてしまうのです。

今後フィクトセクシュアルという言葉がどのように変化していくかは分かりません。しかし現時点での様子や、他の性的マイノリティの受容のされ方を考えると、「愛」への注意はしておくほうがよさそうです(もちろん、これはキャラクターを「愛する」人への批判ではありません。あくまで社会における偏った見方の問題です)。

対人性愛を基準とする価値観や考え方が温存されたまま、対人性愛のルールに則ってキャラクターを「愛する」人だけが「好ましい」ものとみなされ、そこから外れる人々が排除される――。こうした現象を、ホモノーマティヴィティ(異性愛基準の社会のルールにとって受け入れられやすいタイプの同性愛者だけが承認されて、そうでない同性愛者が排除されること)に倣って「フィクトノーマティヴィティ」(ficto-normativity)と呼ぶことができるかもしれません。そうした問題を避けるためにも、これまで積み重ねられてきた歴史や政治的な問題提起をきちんと知っておくことが重要だと思います。

(著:松浦優)

関連記事

*1:How did you identify before asexuality? - Page 2 - Members Questioning - Asexual Visibility and Education Network

*2:Asexual repression - Members Questioning - Asexual Visibility and Education Network

*3:Aspec Fictosexual / Fictonsexual by Pride-Flags on DeviantArt

*4:Sexual Fantasy and Masturbation Among Asexual Individuals: An In-Depth Exploration | Archives of Sexual Behavior

*5:Aセクも多様です――Aセクシュアルの自慰と性的空想に関する近年の研究動向(後編) - 境界線の虹鱒

*6:「フィクトセクシュアル」概念の輸入と拡散 - posfie

*7:この点について、荻野さんへのインタビューを含む学術論文として、Porn as practice, porn as access: pornography consumption and a ‘third sexual orientation’ in Japan: Porn Studies: Vol 7 , No 3 - Get Accessがあります

*8:この点については論文「日常生活の自明性によるクレイム申し立ての「予めの排除/抹消」」のなかで詳しく論じています。

*9:非定型うつで、フィクトセクシュアルの私の話。 | Palettalk パレットーク さんのマンガ | ツイコミ(仮)(2019年12月10日の投稿)

「セックスして一人前」という風潮にモヤモヤする私の話 (音声データ.. | Palettalk パレットーク さんのマンガ | ツイコミ(仮)(2020年9月3日の投稿)

*10:恋愛・結婚のかたち:「降谷零さんと出会って生活が一変した」 二次元のキャラに恋をする“フィクトセクシュアル”の結婚・恋愛像 | ねとらぼ

*11:たとえば2018年のCNNの記事では、フィクトセクシュアルという言葉は使われず、「デジセクシュアル」という言葉が出てきます。The man who married an anime hologram | CNN

*12:この変化はSNSの投稿からも見て取れます。詳しくは「日常生活の自明性によるクレイム申し立ての「予めの排除/抹消」」で分析しています。

*13:きちんと調べられていませんが、英語圏のウェブニュースで「fictosexual」や「fictosexuality」が使われるようになるのは、2022年の近藤さんに関するニュース以降のようです。こうした報道が英語圏でどのような影響をもたらしたか、今後調査が必要です。

*14:『Fictosexual Perspective 2024』pp. 8-9

フィクトセクシュアルだとオープンにした著名人

フィクトセクシュアルやフィクトロマンティックという言葉は、いわゆるLGBTと比べるとあまり知られていません。それもあって、カミングアウトしている著名人もあまり多くはありませんが、最近ではオープンにしている著名人もすこしずつ出てきています。そうした人々の記事や投稿を見ながら、フィクトセクシュアルに対する差別や抑圧についても考えてみたいと思います。

村田沙耶香(小説家)

村田は1979年生まれの小説家で、芥川賞受賞作『コンビニ人間』などで有名です。村田は2025年に、アメリカの雑誌「The New Yorker」の取材のなかで、「わたしにはフィクトセクシュアル(架空のキャラクターに惹かれる性的指向)の傾向がかなり強くあるんです」*1と語っています。また、記事のなかでは、学生時代には現実の人間との性愛を「逃れられない」ものと感じていた経験を語っています。

アクリルフィギュアの話が出たところで、村田は急に持っていたバッグの中をがさがさと探し始めた。「わたしも、いつも持ち歩いているアクスタがあるんです」。彼女が愛するひとりは、「魔法使いの約束」というスマホ向けゲームのキャラクター、2000歳の医師、フィガロだ。大学生のころ、「自分が決して逃れられない現実」として現実の男性と交際しようと努力したこともあった村田だが、20代半ばで自分には「物語のなかで生きている人」たちが幼少期から自分の実際の恋愛と性愛の対象で、フィガロのようにゲームや漫画、アニメーションのなかの人物と生きていることが自然であるなら「現実人間セクシャル」として無理に生きていなくてもいいのだと気がついた。とてもほっとして、「現実人間セクシャル」であろうとすること、恋愛至上主義や性器結合主義が中心となっている世界の一員であるふりをすることをやめたという。*2

 

 

小野田紀美(政治家)

小野田は1982年生まれの政治家で、2025年の高市内閣で経済安全保障担当大臣として入閣した人物です。小野田が最初に自身のセクシュアリティについて表明したのは2017年。当時の内閣第一部会・青少年推進調査会合同会議のなかで、ある議員が性犯罪の要因として漫画を挙げたことに対して、小野田は会議のなかで批判しました。そしてその批判についてTwitterで投稿した際に、「ここからは完全な私見ですが、そもそも本気で2次元を愛している人は3次元なんかに手は出しません。私も3次元に一切興味はありませんし対象外です。そういう感覚は当事者にしか分からないのかもですね。」と投稿したのです*3。この投稿は1.2万件以上リツイートされ、ネット上で話題となりました。

2023年2月18日の投稿では、自身のセクシュアリティについて補足説明するリプライで「フィクトセクシュアル、フィクトロマンティックと呼ぶそうですね」と言及しています*4。また、2023年5月14日には、「LGBT議員立法の審査をした部会」で「差別が全くないかと言えば、無いとは言えない。私自身フィクトロマンティックだが、それを示せば気持ち悪い頭おかしいと言われる事はある」という趣旨の発言をしたとも投稿しています*5

このほか、2019年4月29日には以下のような投稿をしています。

30超えたら言われなくなるはず、35超えたら言われなくなるはず…!とずっと希望を持って耐えてきたけれども、36歳になった今でもまだ早く結婚しろとか言ってくる人がいるんですよね…。いつまで言われ続けるんだろう…私に結婚の可能性があると思われている事自体が本当に気持ち悪いんだけどなぁ…。*6

以前から言っていますが、私は3次元が恋愛対象ではありません。ネタとかではなく本気でです。私にとって「結婚という可能性を自分に見出される事自体が不快」(リプより引用)なのは、ゲイの方に異性と結婚する事を勧めているのと同じだと思って頂けたら…。セクハラとかでなく、心底不快なのです。*7

また、少子化対策とは、全ての国民に結婚や出産を押し付けるものではありません。産みたくても環境やその他の事情でそれが叶わぬ人の障害を全力で取り除き、望んだ生き方が出来るようにする事だと私は思っています。人口バランスは問題ですが、人がさほど必要なくなる時代はすぐそこまできていますし。*8

一方で、小野田はいわゆる極右的と言ってよい面のある政治家で、排外主義的な主張をしていたり、2022年選挙の際のアンケートで「同性婚を法律に明記すること」に「やや反対」と回答していたりする人物です。しかし同時に、自分のセクシュアリティに根ざした形で、結婚の押し付けや表現規制への反対を表明しているなど、アンビバレントな部分があります。本人の政治的主張への批判も重要ですが、同時に、このような立ち回りをしないと(とりわけ女性政治家は)高い地位に上ることができないという、自民党組織の問題としても考える必要があるのかなと思います。

※小野田の政治的主張に対する批判をしつつ、フィクトセクシュアルだと表明している人物が入閣したことの意義にも言及しているメディアとして、以下の動画があります。

考えるべきこと

今回は2人の事例を取り上げましたが、ここまでの説明から、フィクトセクシュアルやフィクトロマンティックの人々が被る抑圧や差別を見て取ることができます。

2人の事例に共通しているのが、対人性愛を押し付けられるという抑圧です。村田の学生時代のエピソードは、「誰もが対人性愛をするのが当然である」という風潮のもとで生じる圧力を語るものだと言えます。小野田の投稿でも、現実の人間との結婚をすべきという圧力と、それに対する不快感がはっきりと語られています。

また、小野田の投稿に関わる論点として、性的創作物への規制や非難もまたフィクトセクシュアルに対する暴力になりうる、というものがあります。二次元の創作物を批判対象として焦点化するという枠組み自体が、対人性愛を基準とした価値判断になっているのではないか、という問題です。この問題については、以下の記事が読みやすいと思います。

もうすこし学術的な解説としては、以下の講義動画や論考もご活用ください。

これに加えて、カミングアウトがまともに受け止められないという問題も、フィクトセクシュアルにありがちな経験です。たとえば2017年の小野田の発信は、国会議員が自身のセクシュアリティをカミングアウトしたものですが、にもかかわらず小野田に取材をしたメディアはほぼありません*9。また、村田のインタビューも性的マイノリティの観点から注目されているとは言い難いでしょう。

セクシュアルティをめぐる議論では、対人性愛の性的指向だけが、重要な属性だとみなされたり、権利侵害から守られるべきものとみなされたりしがちです。またその際には、「○○セクシュアル」のようなカタカナのラベルがあるものだけが「正当」なセクシュアリティであるかのように考えられがちでもあります。しかしながら、まさにそのような発想自体が対人性愛中心主義的ではないか、ということにも注意する必要があると思います。

本サイトの下記の記事でも、フィクトセクシュアルの被る差別や抑圧について解説しています。「後編」とありますが、ここから読んでも問題ありませんので、関心のある方はご活用ください。

(著:松浦優)

*1:英語版記事の表現は「Fictosexuality is very strong in me」です。

*2:「“普通”の世界をエイリアンの目で見る:小説家・村田沙耶香の実験室」『WIRED』(2025年10月23日取得)https://wired.jp/article/sz-sayaka-muratas-alien-eye/。ただし英語版記事にはない文章が追加されています。

*3:自民党・小野田紀美参議院議員が「犯罪の要因の一つが漫画」との発言に異議 「もっと党内に味方がほしい」 - ライブドアニュース(2025年10月23日取得)。本人の投稿はhttps://x.com/onoda_kimi/status/842175945649799168

*4:https://x.com/onoda_kimi/status/1626908795430670339

*5:https://x.com/onoda_kimi/status/1657603773773250560

*6:https://x.com/onoda_kimi/status/1121456351350099968

*7:https://x.com/onoda_kimi/status/1121550842195107842

*8:https://x.com/onoda_kimi/status/1121551854020648960

*9:数少ない例外として、2017年刊行の『マンガ論争Sp.03』(kindle版が2020年発売開始)のインタビューで、この件についても取材されています。

『Fictosexual Perspective 2025』誤植の訂正とお詫び

本書の紙版にて、編集過程で生じた誤植がありました。著者のれん様および読者の皆様に謹んでお詫び申し上げますとともに、下記のとおりに訂正させていただきます。

訂正箇所:「2025年6月版  性欲の研究」103~104ページ(グレーで塗っている部分です)

らえない」と語るし、またそのような語り方が社会的に通用する(というか意味が通る)ものとして語られているが、私においては明らかに、逆らえないのはこの恥骨のあたりの痺れないし靄であり、それをきっかけとして狭くなる喉および浅くなる呼吸であるように思う。おそらく後者の呼吸周りは性欲を性欲として自覚する場合にその判断材料として使われているとは思うが、それは二次的なものだと思う。あくまで、第一の判断材料としてはこの恥骨のあたりの温度、痺れ、本当に呼び方がわからないナニカが原因であるように感じられる。  ここで語っている記述について、今も私は強く同意している。外見上は確かに、誰かが性欲を抱いている、または発情しているとされるとき、こと男性身体においては、屹立するペニスに目が行くだろう。それは男性身体を持つ者にとっても、またそのように自己を表現しない者にとってもである。しかし、少なくとも、私と共にある男性身体、そしてそこで抱かれる自発性性欲(この限定は重要である)については、その経験をつぶさに観察すれば、恥骨部こそが経験の主軸であるように思えるのだ。ゆえに、男性身体の性欲が議論されるにあたり、ペニスに重心が置かれすぎること、また性欲の表象としてペニスだけを持ち出すことの二つに、私は疑義を呈したいのである。  ここで語っている記述について、今も私は強く同意している。外見上は確かに、誰かが性欲を抱いている、または発情しているとされるとき、こと男性身体においては、屹立するペニスに目が行くだろう。それは男性身体を持つ者にとっても、またそのように自己を表現しない者にとってもである。しかし、少なくとも、私と共にある男性身体、そしてそこで抱かれる自発性性欲(この限定は重要である)については、その経験をつぶさに観察すれば、恥骨部こそが経験の主軸であるように思えるのだ。ゆえに、男性身体の性欲が議論されるにあたり、ペニスに重心が置かれすぎること、また性欲の表象としてペニスだけを持ち出すことの二つに、私は疑義を呈したいのである。  だから、書いたのだ。己の皮膚の内側を、徹底的に曝け出すようにして。このことによって、私が新たに暴力を受ける可能性は高い。匿名の盾はそれほど強固でも無いだろう。しかし、こうした議論が世界に存在すべきであることに疑いは無かった。書くことによってしか、あまりにも「私」でありすぎる「あなた」に、私の存在が知られることもまた無いのだから。もはや私は、ただ本稿が善く利用されることを願うばかりである。執筆の機会をくださった松浦様には深く感謝を申し上げる。  本稿で行った記述に、またその態度に、どれだけの同意が得られるかは分からない。しかし、常態的に性欲を経験し、それに苦悩し戸惑うものが居るのなら、本稿の否定や肯定というその仕方によって、本稿が意味を成すものとなることを願っている。以上である。

訂正前

 

らえない」と語るし、またそのような語り方が社会的に通用する(というか意味が通る)ものとして語られているが、私においては明らかに、逆らえないのはこの恥骨のあたりの痺れないし靄であり、それをきっかけとして狭くなる喉および浅くなる呼吸であるように思う。おそらく後者の呼吸周りは性欲を性欲として自覚する場合にその判断材料として使われているとは思うが、それは二次的なものだと思う。あくまで、第一の判断材料としてはこの恥骨のあたりの温度、痺れ、本当に呼び方がわからないナニカが原因であるように感じられる。  ここで語っている記述について、今も私は強く同意している。外見上は確かに、誰かが性欲を抱いている、または発情しているとされるとき、こと男性身体においては、屹立するペニスに目が行くだろう。それは男性身体を持つ者にとっても、またそのように自己を表現しない者にとってもである。しかし、少なくとも、私と共にある男性身体、そしてそこで抱かれる自発性性欲(この限定は重要である)については、その経験をつぶさに観察すれば、恥骨部こそが経験の主軸であるように思えるのだ。ゆえに、男性身体の性欲が議論されるにあたり、ペニスに重心が置かれすぎること、また性欲の表象としてペニスだけを持ち出すことの二つに、私は疑義を呈したいのである。  第二に、また最後に、私は本稿のその全体を通じて、私自身をあなたに、その内側から提示することを試みた。純白であり得ない身体を引き受けて、そのうえで、なおも「倫理」を志向する存在の告知を試みたのだ。これこそ、私がどうか世界に居てほしいと、願った人間の存在に他ならない。私はこれまで、こうした記述を見つけ出すことが出来なかった。暴力の批判は十分に聞いた。私も、その広い意味で、暴力は減ってほしいと願っていた。しかし、私は、暴力を描いた作品と出会う際に、勃起してしまう身体を持った人間なのだ。この事実が、その自覚が、どれだけ私を苦悩させたか。例えそれが緻密な意味で「性欲」では無いのだとしても、最悪な自己理解の契機となったことは確かだった。私における非暴力の議論は、倫理の議論は、この前提の上に為される必要があった。しかしそれは見当たらなかった。寂しかった。  だから、書いたのだ。己の皮膚の内側を、徹底的に曝け出すようにして。このことによって、私が新たに暴力を受ける可能性は高い。匿名の盾はそれほど強固でも無いだろう。しかし、こうした議論が世界に存在すべきであることに疑いは無かった。書くことによってしか、あまりにも「私」でありすぎる「あなた」に、私の存在が知られることもまた無いのだから。もはや私は、ただ本稿が善く利用されることを願うばかりである。執筆の機会をくださった松浦様には深く感謝を申し上げる。  本稿で行った記述に、またその態度に、どれだけの同意が得られるかは分からない。しかし、常態的に性欲を経験し、それに苦悩し戸惑うものが居るのなら、本稿の否定や肯定というその仕方によって、本稿が意味を成すものとなることを願っている。以上である。

訂正後

後日電子版を頒布する場合には、訂正後のものを頒布いたします。

【告知】同人誌『Fictosexual Perspective 2025』頒布のお知らせ

同人誌『Fictosexual Perspective 2025』を以下のイベントで頒布します。

コミケ106(2025年8月16日と17日 両日)

「マンガ論争」特設スペース(東4ホール入口から入ってすぐ左)にて委託販売*1

コミティア153(2025年9月7日)

「マンガ論争」取材チーム(東5ホール企業スペース26)にて委託販売*2

文フリ東京41(2025年11月23日)

ブース:さ-37 (南3-4ホール)

コミティア154(2025年11月24日)

「マンガ論争」取材チームにて委託販売*3

コミケ107(2025年12月30日と31日両日)

「マンガ論争」特設スペースにて委託販売予定*4

※通販の予定はありません。電子版は紙版の頒布が終了次第、販売開始の予定です。

同人誌概要

本誌は、フィクトセクシュアル当事者の経験やフィクトセクシュアルの観点からの思考を記録する同人誌です。春頃に原稿募集を行い、11名にエッセイや論考を執筆していただきました。セクシュアリティジェンダーに関する具体的な経験のほか、「キャラクターとは何か」「物語とは何か」という思索、さらに台湾における性表現規制の記録など、充実した内容になっています。このほか特別寄稿として、NPO法人うぐいすリボンの荻野幸太郎さんの書き下ろし論考も掲載しています。

以下に目次を公開していますので、ぜひご覧ください。

●会場頒布価格:600円

●ページ数:150ページ

表紙

同人誌『Fictosexual Perspective 2025』表紙画像

目次

はじめに 
フィクトセクシャルについて(著:トク)
「親密さ」をすり抜けて(著:いちごのオペラ)
TRPGと(私の)フィクトセクシュアル:ノンバイナリー、キャラクター論(著:kumashe)
とある二次元アイドル愛好家の戯言(著:Renais_F)
平たい人生と立体的な愛(著:可多つむり)
愛とはなんなのか(著:蘇方)
愛と性と倫理に関する断章(著:鷲川つかさ)
あるフィクトセクシュアルの性をめぐるあれこれ(著:き)
「推し」という言葉では、あまりにも軽い(著:ナナフルート)
2024年版 自発性性欲の研究(著:れん)
2025年6月版  性欲の研究(著:れん)
とあるFセク運動家から見た台湾iWIN事件(著:廖希文)
台湾フィクトセクシュアル集散地による二次元の性表現規制に関する陳情書(著:廖希文)
特別寄稿:私が見たフィクトセクシュアルという用語の変遷(著:荻野幸太郎)
付録:フィクトセクシュアルについて考えるための用語集(仮)(著:松浦優)
あとがき

昨年刊行の『Fictosexual Perspective 2024』は電子版を販売中です

*1:コミケには編者(松浦優)は不参加ですので、ご了承ください。

*2:※編者(松浦)は不参加です。

*3:※編者(松浦)は不参加です。

*4:もしコミティア154で委託分が完売した場合、コミケでの頒布はなくなります。

(募集終了済み)同人誌『Fictosexual Perspective 2025』の原稿を募集します

●同人誌『Fictosexual Perspective』について

本誌は、フィクトセクシュアル当事者の経験やフィクトセクシュアルの観点からの思考を記録する同人誌です。コミケ文学フリマ東京などの同人誌即売会で頒布するほか、国立国会図書館への納本を予定しています。電子版も頒布予定です。

本誌で言う「フィクトセクシュアルの観点」は、フィクトセクシュアルを自認する人々の見方だけでなく、より広く、対人性愛中心主義を問い直す視座のことを指します。対人性愛中心主義とは、フィクトセクシュアルの立場から提起された用語で、生身の人間へ性的に惹かれることを「望ましい」「あるべき」セクシュアリティだとする規範のことです。

第1号『Fictosexual Perspective 2024』電子版をBOOTHにて販売しています。

●募集テーマ

以下のテーマでエッセイ原稿を募集いたします。

・自分のセクシュアリティに関する経験
(欲望や感覚、あるいは架空のキャラクターとの関係や、現実での人間関係での出来事など。ご自身の経験と、そこから考えたことや思ったことなどを自由に書いてください)

●投稿資格

下記のいずれかに該当する方
・フィクトセクシュアルあるいはフィクトロマンティックを自認している方
・対人性愛(生身の人間へ性的に惹かれること)とは異なるものとして、架空のキャラクターへ惹かれたり、性的/恋愛的な創作物を愛好したりしている方(フィクトセクシュアルやフィクトロマンティックと自認していない方も歓迎です)

●文字数

3000字〜15000字程度(応相談)

●提出先

投稿は事前エントリー制です。投稿希望の方は、下記のフォームにメールアドレス等の必要事項を記入してください。記入していただいたアドレスに、提出先についての説明をお送りいたします。

●〆切

エントリー期限は2025年4月末5月6日、原稿提出期限は2025年6月末といたします。ただしエントリーの数によっては、期限よりも早く募集を打ち切る場合があります。(2025年5月7日追記:エントリーの募集は終了しました)

●その他

・掲載された文章は、不特定多数の人に読まれたり、将来的に研究やメディア等で引用されたりする可能性があります。原則としてペンネームでの投稿をお願いします。
・寄稿者には謝礼として、完成品の原物もしくは電子データをお渡しいたします。原稿料や謝金はございませんので、あらかじめご了承ください。
・1人で複数投稿していただいても構いません。
・基本的には提出いただいたものを(最小限の校正をしたうえで)そのまま掲載する予定です。ただし全体の分量や構成との兼ね合い等の事情によっては、修正をお願いしたり、掲載をお断りしたりすることがあります。あらかじめご了承ください。

【調査協力者の募集】バーチャルキャラクターもしくはAIと親密関係を営んでいる方へのインタビュー調査

※以下の情報は、調査対象者募集の依頼を受けて掲載しているものです。当団体は研究プロジェクトには関わっておりませんので、ご了承ください。

 

台湾の国立台北大学社会学科の梁展章(リオン マリオ)准教授が主催する研究プロジェクトでは、人々が「バーチャルキャラクター」や「人工知能(AI)チャットボット」と親密関係を築く過程について研究しています。そのため、以下のいずれかの要件に該当する方で、インタビューに協力可能な方を募集しています。

【参加条件】
①バーチャルキャラクター
・20歳以上
・現在または過去にバーチャルキャラクターと親密な関係を築いたことがある、つまり「フィクトセクシュアル」の方
人工知能(AI)チャットボット
・20歳以上
・AIチャットボットを恋愛対象と見なしたことがある方
・AIチャットボットと一か月以上の文字や音声での触れ合いがあり、平均週に60分以上のやりとりをしたことがある方

インタビュー内容は以下のとおりです。

【インタビュー紹介】
・インタビューでは、バーチャルキャラクターとの出会いと関係構築の過程、経験や感想、日常的なやりとりなどについてお伺いします。
・基本的にはオンライン形式で行われ、 顔を出すことが出来かねる場合は、カメラをオフにした状態でインタビューを行うことが可能です。
・1回のインタビューは約2時間です。日程と時間は参加者と相談の上決定します。
・インタビューの内容は録音され、提供された個人情報やデータは機密として扱われ、本研究の目的にのみ使用されます。
・インタビューにご協力いただいた方には、報酬としてAmazonギフトカードをお渡しします。

・この調査は、台湾大学の行為與社會科學研究倫理委員會(行為および社会科学研究倫理委員会)の倫理審査を受けています。

・調査は日本語で行います。

インタビュー調査にご協力いただける方は、以下のフォームから申し込みをお願いいたします。

詳細については、以下の連絡先にお願いいたします。

研究助手 劉 イートン メールアドレス ryuuta1331@gmail.com

プロジェクト責任者 梁展章准教授(メール : marioliong@mail.ntpu.edu.tw 、電話 : +886 02 8674 1111 # 67052