フィクトセクシュアルという言葉はどのように広まったのか。そのなかでどのように意味やイメージが変わってきたのか。この記事では、「フィクトセクシュアル」という言葉の歴史を(現時点で分かった範囲で)紹介していきます。
「fictosexual」という言葉はアセクシュアルのコミュニティから広がったと考えられています。現時点で確認できるもっとも古い用例は、オンラインのアセクシュアル・コミュニティAVENの掲示板で、TeddyMillerという投稿者が2005年8月16日に投稿したものだとされています*1。この投稿者は、性的空想やマスターベーションはするが現実での性交渉はしないという人物で、そのことを表すためにフィクトセクシュアルという用語を作ったと書いています*2。
なぜアセクシュアルのコミュニティからこの言葉が出てきたのか。その背景には、アセクシュアルをどう捉えるかという考え方が関わっています。アセクシュアルは「他者へ性的に惹かれない」という意味ですが、人によっては「性的に惹かれることがまったくないわけではないけれど、アセクシュアルの人とかなり近い感覚がある」という人もいます。つまりアセクシュアルか否かはグラデーション的なものなのです。そしてコミュニティのなかでは、そうした「アセクシュアル寄り」の人々もまた、広い意味で「アセクシュアル・コミュニティ」のメンバーに含まれています。「(総称としての)アセクシュアル」という大きな傘の下に、サブカテゴリーとして、狭い意味でのアセクシュアル(性的に惹かれることがない)やデミセクシュアル(情緒的なつながりができた相手のみに性的に惹かれる)などが含まれる、という発想です。そうしたアセクシュアルのサブカテゴリーのひとつとして、「現実の他者には性的に惹かれず、架空の存在のみに惹かれる」ことを指す「フィクトセクシュアル」が出てきたのです。
また、「他者へ性的に惹かれない」というアセクシュアルの定義にも注目すべきところがあります。ここで言う他者を「他の人間」つまり現実の人間と捉えれば、架空の存在のみに惹かれる人も(広い意味で)アセクシュアルに含むことができます。実際、架空の存在のみに性的に惹かれる人は、実生活上の人間関係において性愛を望まないということで、アセクシュアルの人と共通の経験をすることが珍しくありません。そのような背景もあって、フィクトセクシュアルがアセクシュアル・コミュニティの一員として認識されるようになりました。
このことはプライドフラッグからも見て取れます。フィクトセクシュアルのプライドフラッグとして最もよく知られているものとして、2015年に制作された以下の画像があります*3。黒とグレーと紫のストライプを背景に、中央にピンクの丸が描かれています。この背景のストライプで使われている色は、アセクシュアルのプライドフラッグと同じ色で、「(現実の人間に対しては)アセクシュアル」ということを意味しています。そしてピンクの丸は、フィクションの世界へとつながるポータルを表しています。まさにアセクシュアルのサブカテゴリ―としてのフィクトセクシュアルを表すものとして、このフラッグは作られているのです。

ちなみに、フィクトセクシュアルに言及した最古の学術論文は、2017年に『Archives of sexual behavior』誌に掲載された論文「Sexual Fantasy and Masturbation Among Asexual Individuals: An In-Depth Exploration」です*4。これはアセクシュアルの人々の性的空想や自慰について調査した研究ですが、そのなかで、アセクシュアルを自認しつつフィクトセクシュアルやフィクトロマンティックを自認する人もいることが、AVENの投稿をもとに言及されています。
日本語圏への輸入
2017年頃になると、フィクトセクシュアルという言葉が日本語圏でも使われるようになります。現時点で確認できるもっとも古い事例は、2017年7月29日に松浦優が投稿したブログ「Aセクも多様です――Aセクシュアルの自慰と性的空想に関する近年の研究動向(後編)」です*5。この記事では、先ほど触れた『Archives of sexual behavior』誌の論文が紹介されています。つまりこの時点で、アセクシュアル・コミュニティでの用法が輸入されたと言えます。
日本でこの言葉が広まる最初のきっかけとなったのが、荻野幸太郎のTwitter(現X)への投稿です。これは渡辺真由子『「創作子どもポルノ」と子どもの人権:マンガ・アニメ・ゲームの性表現規制を考える』(後に剽窃行為が発覚し絶版)の発売を受けて、2018年3月16日に投稿された連続ツイートです。長くなりますが、とても重要な文章ですので引用しておきます。
絵や記号や物語を性的対象にする人々への敵意を煽る本が出版されるようです。特に中学生や高校生の思春期のfictosexualなどの子どもたちが、学校や家庭、地域などで孤立することのないよう、適切な情報発信に努めていく必要があると思います。
絵や記号や物語が性的対象の大学生・大学院生たちからは、中学生や高校生の頃が、ちょうど「非実在都条例」や「なくそう子どもポルノキャンペーン」の時期で、本当につらい思いをしたという話をたくさん聞きました。
10代の自分のセクシュアリティについて模索する彼らの大切な時期は、「まるで世界中の人たちから、自分がペドフィリアだと自白するよう脅されているように感じた」、「ユニセフや都庁のような権威ある組織から、毎日毎日テレビや新聞で攻撃されてるようで、何をしていても楽しくなかった」そうです。
そんな暗黒時代を繰り返してはいけません。私たち責任ある大人が、絵や記号や物語を性的対象にするセクシュアリティの子どもたちに向けて、「君たちは異常者でも犯罪者でもない」と寄り添っていく姿勢を示す必要があると思います
性的対象が他人の身体ではなく概念や物語である人々のセクシュアリティをポルノ消費と決めつけ貶め、刑事罰の提言によって脅し続けることが、いったい何をもたらしたのか、その取り返しのつかない加害に、他人の身体を性的対象とするマジョリティの側こそが、真面目に向き合わなければならないはずだ。 *6
マンガやアニメなどの性的創作物に対する規制は、単に「表現の自由」の問題であるだけでなく、セクシュアリティの問題である――。そのことをいち早く(東京都「非実在青少年」条例の問題の頃から!)理解していたのが荻野さんです*7(この経緯の詳細は荻野さんのnote記事 私が「表現の自由」の仕事をするようになった理由|荻野幸太郎 もご覧ください)。この問題提起のなかで、フィクトセクシュアルという言葉が用いられたのです。
また、「対人性愛」という言葉が使われ始めるのもこの時期です。性をめぐることがらについて、対人性愛を基準とする枠組みでジャッジするのは、マジョリティの横暴ではないのか。性的創作物規制は、現実の人間に性欲を向ける人々による責任転嫁ではないか。そうした問題意識から、それまで「当たり前」とされてきたマジョリティのほうに問いを投げ返す言葉として、対人性愛という言葉が出てきたのです*8。
さらに対人性愛の問い直しは、アセクシュアルからの問題提起とも呼応するものです。対人性愛を基準とする価値観(対人性愛規範)に対する批判は、「誰もが性的あるいは恋愛的な関係を実践するものだ」という固定観念への批判でもあるため、アセクシュアルの立場からの問題提起と大きく重なるものです。また、日本でもフィクトセクシュアルの人が「現実ではアセクシュアル」という言い方で自分を説明するケースが確認できます。つまりこのとき、フィクトセクシュアルという言葉は、対人性愛を基準とする枠組みのもとで生じる差別や周縁化を批判する、という文脈で広まったのです。
その後、性的マイノリティに関する発信活動をしている媒体でも、フィクトセクシュアルが散発的に取り上げられました。なかでもパレットークが、フィクトセクシュアルの経験を扱ったマンガエッセイを2つSNSに投稿したほか*9、書籍『マンガでわかるLGBTQ+』で「フィクトセクシュアル」を「2次元の相手に性的欲求や恋愛感情を抱く人」と解説しており、これを通してこの言葉を知った人も一定数いるのではと思います。
キャラクターとの「結婚」というイメージ
その後、フィクトセクシュアルという言葉が大きく広く知られるきっかけとなったのは、2020年8月6日に「ねとらぼ」に投稿されたウェブ記事です。この記事では「架空のキャラクターを「夫」として生活する」女性が「フィクトセクシュアル(二次元性愛)」として取り上げられています*10。これがYahoo!ニュースに転載されることでSNSで広く拡散され、フィクトセクシュアルは架空のキャラクターと結婚する人だというイメージが広がりました。
これをきっかけに用語が知られるようになったことで、フィクトセクシュアルを自認する人がさらに出てきます。その一人が、いわゆる「初音ミクと結婚した人」として知られる近藤顕彦です。彼が結婚式を行ったのは2018年ですが、当時は用語が知られていないこともあり、フィクトセクシュアルとは名乗っていませんでした*11。「ねとらぼ」の記事が出て以降、彼もフィクトセクシュアルを名乗るようになり、その後の彼に関するメディア報道を通してフィクトセクシュアルという言葉が広まることになりました。
かくして2020年頃から、フィクトセクシュアルは「恋愛」や「結婚」というイメージと強く紐づけられるようになります。具体的には、フィクトセクシュアルといえば架空のキャラクターを「パートナー」とする人々のことだ、というイメージが強まっていきました*12。この流れのなかで、フィクトセクシュアルという言葉が必ずしも「アセクシュアル」というニュアンスを持たずに使われることが増えてきます。つまり、架空のキャラクターに「本気」の恋愛感情を抱いている人ならば、現実の人間へ性的に惹かれることのある人でも、この言葉を名乗るようになってきたのです。フィクトセクシュアルのイメージが「恋愛化」された、と言えるでしょう(この傾向は英語圏にもおおむね共通するように思われます*13)。
「結婚」「恋愛」というステレオタイプへの注意
ここまで、フィクトセクシュアルという言葉の初出からスタートして、現在の状況までをざっと見てきました。もともと「アセクシュアル」のサブカテゴリーとして広まった言葉が、対人性愛を基準とする価値観や固定観念(対人性愛規範)への批判を伴いながら日本に持ち込まれ、その後キャラクターとの「結婚」や「恋愛」というイメージと結びつけられるようになってきた、と言えます。
現実の人間以外の存在に「本気の」恋愛感情を抱くことに対しては、依然として根強い偏見があります。この問題は、フィクトセクシュアルに対する差別の問題として今後取り組んでいかなければならない重要な論点です。
しかし同時に忘れてはならないのが、「恋愛は誰もがしたいと思うものだ」とか「恋愛は他の関係性にはない格別な価値がある」という固定観念がもたらす問題です(こうした社会通念を恋愛伴侶規範と言います)。現在の状況は、ある意味でフィクトセクシュアルが「恋愛」や「結婚」と結びついたものとしてステレオタイプ化されているとも言えます。こうした状況は、「恋愛」や「結婚」に関心のないタイプのフィクトセクシュアルを不可視化するものであり、当事者にとっては、自身のセクシュアリティについての自己理解を阻害することにもつながります。この点について、『Fictosexual Perspective 2024』に収録された当事者の文章を紹介しておきます。
今となっては、自分がずっと前から、アセクシュアルで、アロマンティックな、フィクトセクシュアルであったのだと理解することができている。今も昔も、恋愛とセックスは(飲酒と同じように)私にとって生活圏外の他人事で、自分が誰かとそうすることなんて考えもしない一方、特定の文法で描かれた二次元ポルノを私は愛好していて、それを鑑賞し、また時にそれでマスターベーションすることは生活の一部分になっているのだ。けれども、多くのセクシュアルマイノリティの語りに見られるように、自分にこういったラベルを与えるのには、相当な時間がかかった。長い間、私は自分のことを、二次元ポルノ中毒で、拗らせた、異性愛者のオタクなのだと思っていた。
マスターベーションが、そしてマスターベーションのみが自分の性生活を構成しているという事実が、私がセクシュアリティに関して持っていた誤解と相まって、自分自身についての理解を遅らせることとなった。アセクシュアルを「性欲がない」程度のこととして捉えていたために、マスターベーションをしている自分がアセクシュアルであるとは露にも思わなかった。また、キャラクターとの結婚を公表する人々の語りを通じて、「フィクトセクシュアル」という用語も知ってはいた。しかし、ほとんどの場合、私は色々なキャラクターに性的に惹かれてはマスターベーションをしている「だけ」(!!)であるために、率直に言って、私はフィクトセクシュアルを名乗るには俗っぽすぎるように思われた。
Twitterにて流れてきた学術的な論考をきっかけに、フィクトセクシュアル、アセクシュアル、アロマンティック、あるいは社会で共有されている恋愛と性愛に関する物語の非自明性について学ぶ中で、これらの誤解はゆっくりと解消されていった。アセクシュアルを特徴づけるのは、「他者に対して性的に惹かれない」ことである。何かを想ってマスターベーションするのは好きだけれども、私が性的に惹かれるのは架空のキャラクターだけだから、私は他者に性的に惹かれないアセクシュアルだ。また、社会の期待するあるべき恋愛と性愛の形がどうであれ———即ち、生身の人間同士で、一対一で、恋愛しつつセックスし、セックスしつつ恋愛していく物語がどんなに理想とされていようとも———私は二次元キャラクターに性的に惹かれるのだから、フィクトセクシュアルなのである。(そして、他者に恋愛的にも惹かれないため、アロマンティックでもある。自分がフィクトロマンティックなのか、そうでないのかについては、正直まだよくわからない)
*14
「愛」というのは、多くの人がなんとなく望ましいと感じるものでしょう。「愛し合う二人の関係なら、それが人間同士だろうと人間とキャラクターの関係だろうと、同じく尊いのだ」という発想は、ある意味で世間的にもウケがよいと思います。しかしそのとき見落とされるのが、「性的なことがらを人間関係(≒親密関係)のなかで行う」というモデルに当てはまらない人々の存在である、ということを忘れてはいけません(それはちょうど、「恋は誰もがするもので、その相手がたまたま異性ではなく同性だっただけだ」という同性愛擁護が、暗にアセクシュアルの存在を否定してしまってきたのと同じ問題です)。
さらに言えば、「対象が現実の人間だろうとキャラクターだろうと関係ない、性愛は性愛だ」という発想にも注意が必要です。こうした発想では、「人間」と「キャラクター」が異なる存在物であるということの意義や効果が無視されてしまいます。そしてそのとき、対人性愛規範に対する問題提起もまた無視されてしまうのです。
今後フィクトセクシュアルという言葉がどのように変化していくかは分かりません。しかし現時点での様子や、他の性的マイノリティの受容のされ方を考えると、「愛」への注意はしておくほうがよさそうです(もちろん、これはキャラクターを「愛する」人への批判ではありません。あくまで社会における偏った見方の問題です)。
対人性愛を基準とする価値観や考え方が温存されたまま、対人性愛のルールに則ってキャラクターを「愛する」人だけが「好ましい」ものとみなされ、そこから外れる人々が排除される――。こうした現象を、ホモノーマティヴィティ(異性愛基準の社会のルールにとって受け入れられやすいタイプの同性愛者だけが承認されて、そうでない同性愛者が排除されること)に倣って「フィクトノーマティヴィティ」(ficto-normativity)と呼ぶことができるかもしれません。そうした問題を避けるためにも、これまで積み重ねられてきた歴史や政治的な問題提起をきちんと知っておくことが重要だと思います。
(著:松浦優)
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