【前編】フィクトセクシュアルから考えるジェンダー/セクシュアリティの政治【Fセク入門】

この記事は、2023年8月23日に台湾で行われた講演「フィクトセクシュアルから考えるジェンダーセクシュアリティの政治」の原稿の全文です。フィクトセクシュアルに関する議論の入門テクストとしてご活用ください(前編中編後編の三分割で掲載しています)。

なお、同じ文章のPDF版を↓のリンク先で公開しておりますので、お好きな方をご覧ください(※論文や記事などで引用する場合はPDF版を参照してください)。

1 はじめに

 みなさまこんばんは。本日はご参加いただきまことにありがとうございます。また、このような機会をつくってくださった廖希文さま、通訳の小松俊さま、そして企画・運営をしてくださった、女書店さま、臺大御宅研究讀書會さまに、深くお礼申し上げます。

 本日は、フィクトセクシュアルの観点からフェミニズムクィアの運動や研究にどのような示唆をもたらすことができるか、という問いを中心に、フィクトセクシュアルに関する調査と理論的研究の知見をお伝えしていきたいと思います。時間の都合上、注釈は読み上げられませんが、細かい理論的背景や関連情報などを補足していますので、必要に応じてご覧ください。

 1.1 用語の確認

 まずは用語の確認をしておきます。フィクトセクシュアルとは、架空のキャラクターへ性的に惹かれるセクシュアリティを表す造語です。具体的には、①「性愛」や「恋愛」として一般的に想定される営みを架空のキャラクターと行いたいと感じること、もしくは②生身の人間への欲望とは異なるものとして架空の性的表現への欲望を経験すること、を表す言葉として、日本では用いられています。架空のキャラクターへ恋愛的に惹かれることを表す語彙としては、フィクトロマンティック(fictoromantic)が用いられます[1]

 フィクトセクシュアルはときどき「二次元性愛」と訳されることがありますが、これはフィクトセクシュアルの訳語としては正確ではありません。というのも、「二次元」文化は創作文化のうちの特定のジャンルであり、イラストや小説などであっても必ずしも「二次元」表現とはみなされないからです。

 しかしながら、単にフィクションであるということだけでなく、二次元であるということが、自身のセクシュアリティにとって重要な意味を持つという人もいます。架空の人間に惹かれるというよりも、むしろ二次元キャラクターというノンヒューマンに惹かれるセクシュアリティです。私の主な研究テーマはこういったセクシュアリティです。こうした人々のなかには、二次元キャラクターのみに性的に惹かれる人もいますし、二次元と三次元の両方に惹かれつつも両者を別カテゴリーの存在として欲望する人もいます。このような、人間とは異なる存在として二次元キャラクターを欲望するセクシュアリティを、私はこれまで「二次元をめぐる非対人性愛」と呼んでいましたが、以下では縮めて「二次元性愛」と呼ぶことにします。

 1.2 フィクトセクシュアル・アイデンティティとフィクトセクシュアル・パースペクティブ

 ここまでの説明に対して、なぜわざわざフィクトセクシュアルやフィクトロマンティックと名乗るのか、なぜそのような言葉を使う必要があるのか、と思う方もいると思います。その理由は大きく2つあると考えています。ひとつは、架空の対象をめぐる経験や欲望や情動が自身の性的アイデンティティと結びついていることを示すため。そしてもうひとつは、架空の性的表現をめぐる欲望や実践についてクィア・ポリティクスの文脈で捉えるべきだと強調するためです。

 まずアイデンティティとしてのフィクトセクシュアルについてですが、これは自分が何者であるかを説明するためのラベルです。ラベルがあることによって、自分自身が何者であるかをある程度説明できるようになります。また、言葉があることによって、似たような悩みや経験をもっている他の人とつながり、お互いの状況について語り合うこともできるようになります。つまり同じようなセクシュアリティの人とつながり、コミュニティを作ることができるのです。さらに、フィクトセクシュアルというラベルがあることによって、そのようなセクシュアリティの人が存在するのだということを公に示すこともできます。

 このように、アイデンティティのラベルとしてのフィクトセクシュアルは、自己理解や自己呈示のツールだと言えます。なのでフィクトセクシュアルという言葉は、特定の人物や団体が「客観的な定義」を決めるようなものではありませんし、また第三者が「診断」するものでもありません。また、架空の対象へ性的に惹かれる人や、架空の性的表現を愛好する人が全員「フィクトセクシュアル」と名乗らねばならない、というわけではありません。フィクトセクシュアルと名乗るか否かは、それぞれの人が自分にとってしっくりくるかどうか、自分のあり方をどう社会に呈示したいかで決めればよいのです。

 アイデンティティの論点に加えて、クィア・ポリティクスの論点として、フィクトセクシュアルを周縁化する構造的問題があります。それが対人性愛中心主義です。対人性愛中心主義とは、生身の人間へ性的に惹かれることを「正常」なセクシュアリティとみなす社会規範です。この対人性愛中心主義は、異性愛規範や性別二元論、あるいはアセクシュアルを周縁化する強制的性愛などとも密接に結びついています(この点は後半で説明します)。つまり、対人性愛中心主義批判というフィクトセクシュアルの観点(fictosexual perspective)からの問題提起は、フィクトセクシュアルだけでなく他のマイノリティやマジョリティとも関わるものなのです。

 ここまでの内容を整理しましょう。フィクトセクシュアルとは、アイデンティティであると同時に、政治的なパースペクティブでもあります。そして両者はいずれも、架空のキャラクターや架空の表現に関する性的欲望や惹かれについて、セクシュアリティの政治に関する文脈で捉えるためのものです。より具体的に言えば、生身の人間との性愛という対人性愛には還元できない、独自のセクシュアリティであることを強調するものです。

 そのため、フィクトセクシュアルの立場から提起される論点は、たとえばフィクトセクシュアルを自認しない「オタク」や「夢女子」などにも開かれていますし、もちろんオタクでない人にも開かれています。そのことに留意しながら、これからの議論を聞いていただけますと幸いです。

2 二次元をめぐる欲望や実践

 ここまではフィクトセクシュアルという言葉に注目してきましたが、ここからは人々の欲望や実践について議論していきます。とくに私の研究領域である二次元性愛についての議論になりますが、私はこれまで「二次元の性的表現を愛好しつつ、生身の人間へ性的に惹かれない」人に対するインタビューを行ってきましたので、まずは事例をもとに説明していきます。

 二次元性愛の立場から言えるのは、二次元への欲望は人間に対する欲望ではないということです。たとえば、「キャラクター性愛者」や「フィクトセクシュアル」を自認している方は、タレントなどの生身の人間には性的・恋愛的な関心が向かず、「絵じゃないとダメ」だと語っていました。こうしたセクシュアリティにとっては二次元と三次元の違いが重要なのだということが分かるかと思います。

 とはいえ、二次元への欲望と三次元(生身の人間)への欲望が分離しているという人は、二次元のみに惹かれるという人だけにかぎったことではありません。むしろ従来の「オタク」論でよく強調されていたのは、二次元にも三次元にも惹かれるものの、それぞれの惹かれが乖離している人の存在です。斎藤環はこのことを、「オタク」は「『欲望の見当識』をやすやすと切り替えている」と説明しています(斎藤 2000: 53)。このような「オタク」の特徴を、斎藤は「多重見当識」と概念化しました。ちなみに「見当識」は精神医学の用語ですが、英語だとorientationです。多重見当識は、現象としても用語としても、まさに(性的)「指向」を複数化するものだと言えます[2]

 この点に関して、女性の二次元性愛について示唆的な指摘をしているのが守如子です。守は『女はポルノを読む』という著作のなかで、「男性向けポルノコミックを読む女性読者にとって、「男性向けポルノコミックは男性が描く“疑似女性”であるから、自分とは切り離された別のものとして見ることができるので、ファンタジーとして受け止めやすい」」場合があると示唆しています(守 2010: 192)。二次元の女性キャラクターは「疑似女性」であり、生身の人間の女性とは異なるものとして受容されうるということです[3]

 二次元と三次元が存在論的に異なるカテゴリーであると考えれば、女性読者が二次元の女性キャラクターを自分と「同じ」カテゴリーの存在者として認識するとはかぎらない、それゆえ「『生身の人間の女性』と『二次元の女性キャラクター』は『同性』である」という命題は決して自明ではない、ということも理解できるかと思います。

 ここまでは主に性的欲望についての議論でしたが、二次元キャラクターに恋愛感情を抱く人や、あるいは親密関係を志向する人もいます。今のところ法的には二次元キャラクターと婚姻関係になることはできませんが、結婚式というイベント自体は、結婚式場を借りたり企画を組んだりすれば、法制度とは関係なく行うことができます。そのようにして二次元キャラクターとの結婚式を行う人々はいます。

 こうした人々のなかには、「同性」のキャラクターと結婚している人もいます。ただ、「同性」キャラクターと結婚している人は、フィクトセクシュアルのなかでもさらに少数ですので、なかなか可視化されにくい状況です。

 ところで、二次元キャラクターとの関係というのは、人間からキャラクターへの一方向的なものだと思われるかもしれません。キャラクターに恋愛感情を抱いている人々のなかにも、キャラクターと双方向的なコミュニケーションはないという人はいます。ですが二次元キャラクターとの関係が双方向的ではありえない、と考えるべきではありません[4]

 架空の対象とのコミュニケーションというと、なにか特殊な行動だと思われるかもしれません。ですが、たとえば創作活動のなかでも、マンガや小説を描き進めていくうちに、もともと考えていたプロットからキャラクターが逸脱して、いわば「キャラクターが勝手に動く」ということは珍しくありません[5]。架空のキャラクターとの関係には創作活動と連続的な側面もあるのではないかと思います。

 この点と関連しますが、二次元キャラクターと結婚式を行なった方々は、著作権者からの許諾を取ったり、そのキャラクターに関する二次創作ガイドラインを確認したりしています(近藤編 2022)。架空のキャラクターは人間とは異なる仕方で存在していますので、適用すべき倫理にも人間同士の関係とは異なるところがあります。今後の課題ですが、こうした人々の営みについて、より詳細な研究が必要だと思います。

 他方で、二次元キャラクターとの双方向的な関係を望まない人や、三次元の自分と二次元キャラクターとの間に「次元の壁」があることをポジティブに捉えている人もいます。たとえば、他者へ性的に惹かれず、性的関係を持ちたいと思わないものの、自分が登場しない性的空想や性的表現を愛好したり、自慰をしたりすることはある、というセクシュアリティがあります。これはアセクシュアル・コミュニティで「エーゴセクシュアル」(aegosexual)と呼ばれています。「二次元の性的表現を愛好しつつ生身の人間へ性的に惹かれない」人々のなかには、エーゴセクシュアルな人もいて、そうした人にとっては二次元と三次元の間の「断絶」がむしろ積極的な価値を持っているのです。

 このことは、現実であれば嫌悪感を抱く内容でも二次元なら楽しめるという話とも関わります。実際にはやりたくない実践や、そもそも現実では物理的に不可能な内容であっても、二次元であれば作品を作ったり愛好したりできる場合があるのです[6]。これは対人性愛中心主義を問い直すうえでも重要なポイントです。このような、キャラクターとの「断絶」が持ちうる意義を取りこぼさないよう気をつけなければなりません。

[1] フィクトセクシュアル/フィクトロマンティックは、アセクシュアル/アロマンティックのマイクロラベルとして用いられることがあります。この場合は、「現実の人間へ性的/恋愛的に惹かれず、架空のキャラクターのみに性的/恋愛的に惹かれる」という意味です。これはアセクシュアル/アロマンティック界隈で使われることのある用法です。

 ただしフィクトセクシュアル/フィクトロマンティックの人々が必ずAro/Aceとしてのアイデンティティを持っているわけではありません。架空の対象ではあれ、まさに性的あるいは恋愛的惹かれを経験しており、自分がアセクシュアルやアロマンティックだとは感じられない、という人ももちろんいます。さらに、生身の人間と架空の対象のどちらにも性的惹かれを感じる人もいます。Aro/Aceのマイクロラベルとは異なる用法もある、ということに注意してください。

[2] ただし斎藤の精神分析的な理論はラカンに大きく依拠しており、ラカン的な性別二元論の図式を前提としている点で問題含みなものではあります。たしかに斎藤も「男性向け」ジャンルと「女性向け」ジャンルの区分が曖昧化しつつあるという現象に言及してはいますが、しかし理論の面では性別二元論が揺らぐ可能性を組み込めていないのです。とはいえ「多重見当識」概念はラカンに由来するものではありませんし、また斎藤は「日常的な性生活と、想像上の性生活とが完全に乖離」していることについては、男性オタクだけでなく女性オタクにも当てはまると論じています(斎藤 2003: 24)。多重見当識=複数的指向(multiple orientations)という概念はクィア理論にも積極的に引き継いでいく価値があると思います。

[3] ただし守はこのことを単に「読み方」の多様性として論じており、いわば記号の解釈の多様性として捉えています。これに対して、人間ではない二次元キャラクターという存在への欲望は、記号解釈ではなく存在論の問題です。守の研究では、二次元と三次元という存在論の違いが捉えられておらず、結果的に対人性愛と異なるセクシュアリティがあることが見落とされています。そしてこれは、二次元の性的表現をめぐる多くの議論が陥っている問題でもあります。この問題を乗り越えるための理論については、のちに説明したいと思います。

[4] たとえば、「想像のなかで相手とやり取りする」という「脳内会話」や、「キャラクターに対するメッセージを書き、それに対する相手の応答を(そのキャラクターになりきって)書く」という「交換日記」などのような仕方で、愛するキャラクターとコミュニケーションをしている人もいます。

[5] フィクトセクシュアルに関する研究ではありませんが、作家に対する調査から、自分の書いたキャラクターが自分に話しかけてきたという経験のある作家が少なくない、と指摘している研究もあります(Foxwell et al. 2020)。

[6] その例として、「オタク」論ではよくロリコンショタコンが挙げられてきました(斎藤 2003; Galbraith 2011)。繰り返し指摘されているように、未成年の二次元キャラクターを性的あるいは恋愛的に愛好している人は、生身の人間の児童を欲望していない人が大多数であり、かれらはペドフィリアではないのです。このほかにも私の調査では、「妹もの」のラノベやマンガを愛好しつつも「現実の近親相姦」には嫌悪感を覚えると語っている男性がいました。また女性の場合でも、暴力的な性描写でも「フィクション」だから楽しめるという人や(守 2010: 114)、逆に「絵がリアルすぎてこわい」と感じる人がいます(守 2010: 121)。

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