【後編】フィクトセクシュアルから考えるジェンダー/セクシュアリティの政治【フェミニズム・クィアな連帯へ】

※前編と中編はこちら↓をご覧ください。

4 周縁化の事例

 4.1 あからさまな排除/マジョリティへの回収による抹消

 以前書いた論文で、フィクトセクシュアルに関するSNSの投稿を分析したのですが、そのときのデータをもとに、フィクトセクシュアルに対する差別的な言説をいくつか紹介いたします。まず典型的な偏見が、「正常」な対人関係を築くことができない人なのではないか、というステレオタイプです[1]

 これと関連するものとして、フィクトセクシュアルを一方的な支配の欲望であるかのようにみなす偏見もありました[2]。このような偏見は、先ほど触れたような架空のキャラクターとの双方向的な親密関係を生きている人々を攻撃するものです。それに加えて、ここには人間に対する倫理的なふるまいと同じことを、そっくりそのまま架空のキャラクターにも行うべきだという不当な価値判断が含まれています。こうした価値判断は、まさに二次元と三次元の違いに意味はないのだとほのめかすものであり、非対人性愛としてのフィクトセクシュアルの存在を否定するものでもあります。

 これと関連する話ですが、架空のキャラクターとの結婚に対するウェブ上の反応として、「架空のキャラクターとは同意が取れないではないか」という書き込みが少なからずありました。たしかに生身の人間であれば、相手の心身に危害や不利益を与えないために、同意が重要となるかもしれません。ですが架空のキャラクターは、人間とは異なる存在である(さらに言えば生物ではない)ため、人間と同じ仕方で傷つくわけではないはずです。それに加えて、同意は人間同士の性愛においてさえ、倫理的な原理とはなりえません[3]。何のために同意が必要なのか、ということをきちんと考えるべきでしょう。

 このほか、「本当は生身の人間を欲望しているが、それが難しいので代わりに架空のキャラクターを欲望しているのだ」という誤認もあります。たとえばフィクトセクシュアルは「非モテ」と結びつけて認識され、「性愛から逃避している」「モテないことの言い訳」とみなされることがあります。あるいは、対人関係や性愛に対するトラウマが原因でフィクトセクシュアルになったのではないかと疑われることもあります。

 たしかに、対人関係での困難やトラウマを抱えているフィクトセクシュアルの人もいます。他方で私の調査では、こうした固定観念を批判している当事者もいました。また、フィクトセクシュアルのなかには、幼少期から架空のキャラクターに性的欲望や恋愛感情が向いており、生身の人間にはずっと性的・恋愛的に惹かれなかったという人もいます。フィクトセクシュアルと一口に言っても、そのなかには多様な人々がいるということを忘れないでください[4]

 架空のキャラクターを欲望することに対する偏見は、40年前の「おたく」蔑視にも含まれていました[5]。ただし日本では2010年頃から「オタク」が一般化しており、大人がアニメやマンガを受容することも珍しくなくなっています(辻・岡部 2014)。現在では、「オタク」はせいぜいアニメやマンガやゲームあるいはアイドルなどのコンテンツを愛好している人、という程度のニュアンスになっており、ある意味「ただの趣味」になっているのです[6]

 このような社会では、架空のキャラクターにハマることは趣味のひとつと認識されます。その結果、フィクトセクシュアルは「ただの趣味」とみなされることもあります。これは一見すると問題ないように見えるかもしれません。ですがそこでは、フィクトセクシュアルや二次元性愛がセクシュアリティとして理解されません。また、対人性愛中心主義的な認識枠組みや価値観を相対化するという視座も失われてしまいます。いわばマジョリティへ回収されることによって抹消されるのです。このような抹消もまた、フィクトセクシュアルを不可視化し、フィクトセクシュアルが周縁化される構造を温存するものなのです[7]

 4.2 LGBTコミュニティからの無理解

 ここまで述べてきたように、フィクトセクシュアルもまたある種の性的マイノリティとして差別を経験することがあります。とはいえ、いわゆるLGBTコミュニティの人々がフィクトセクシュアルについて理解しているかというと、必ずしもそうではありません。背景として、架空のキャラクターへ惹かれることをセクシュアリティクィアの観点から捉えるための語彙や理論がなかった、という問題があります。

 これは韓国の方にインタビューしたときに聞いた話ですが、「二次元キャラクターを性的に好きになるのは、ある意味で性的マイノリティではないか」という趣旨の書き込みをツイッターで投稿したところ、それに対して20~30人ぐらいから連続で非難を受けた、という経験を語っていました。特に多かったのがゲイ男性からの非難で、加えてフェミニストからの非難もあったそうです。日本でも、二次元キャラクターへ惹かれることを性的マイノリティの文脈で捉える見方はほとんどありません。今でもLGBTとフィクトセクシュアルや二次元性愛の間には距離があると言ってよいでしょう。

 こうした問題は、たとえばアセクシュアルに対するLGBTコミュニティからの差別と共通するものです。アメリカでの事例ですが、アセクシュアルの人々がプライドパレードに参加した際に、ある著名なLGBTアクティヴィストが、アセクシュアルは「セックスしないことを選択している」だけなのだからプライドパレードに出る必要なんてないだろう、と揶揄したという出来事がありました[8]。これと同じような認識が、フィクトセクシュアルに対しても向けられることがあると考えられます。

 もちろん、LGBTアセクシュアルでは差別の歴史や経験が異なりますし、そもそもL、G、B、Tでもそれぞれ異なる状況に置かれています。それと同じく、フィクトセクシュアルもまたLGBTアセクシュアルとは異なる歴史や経験を有しています。しかし同時に、LGBTアセクシュアルを周縁化する構造はフィクトセクシュアルを周縁化するものでもありますで、さまざまな性的マイノリティの連帯を目指すことが重要だと思います。

 4.3 フェミニズムからの無理解

 同じ問題はLGBTだけでなくフェミニズムでも起こっています。一例ですが、上野千鶴子は『女ぎらい』のなかで、「女性性の記号」だけに欲情することを「女を性欲の道具としか見なさない」ミソジニーだと批判しつつ(上野 2018: 11)、「男が現実の女から「逃走」して、ヴァーチャルな女に「萌え」るのは、昔も今も同じ」(上野 2018: 26)だと述べて、二次元の女性キャラクターに対する欲望もまた人間の女性に対する欲望と同じく、「誘惑者としての女がすすんで男の欲望に従うあいもかわらぬ男につごうのよい男権主義的な性幻想を再生産している」(上野 2018: 99)と示唆しています。このような認識は上野だけのものではなく、むしろ多くのフェミニストが共有しているものです。ですがこのような批判は、男/女の差異に焦点を当てることによって、二次元と三次元の違いを完全に無視しています[9]。まさに二元論的な性的差異を根源的なものとみなすことによって、二次元性愛の存在を抹消しているのです[10]

 このような抹消は、フェミニズム内部でのホモフォビアと同じ構図です。現在では少なくなったと思いますが、1980年代頃まではフェミニズムの名のもとに同性愛差別が行なわれることもありました。そうした差別は、ジェンダーの差異を根源的なものとする見方によって、同性愛の存在を実質的に否定するものでした[11]

 また近年では、トランスジェンダーに対する差別が世界的に力を増しています。日本も例外ではありません。なかには「女性を守るため」という題目のもとにトランスジェンダーを差別しているケースも起こっています。こうした差別言説の例として、「トランス女性は女性用トイレを使うべきではない」とか「トランス女性が女性用トイレを使えるようにすると性犯罪が増えるのではないか」という主張が挙げられます。こうした主張が問題なのは、実質的にトランス女性を「男性」だとみなしていることです。つまりそのような主張は、トランスジェンダーの存在を実質的に否定するものなのです。これもまた、男/女を根源的な差異とみなしながら、シス/トランスという別の差異を否定するものだと言えます。

 ここでは性的マイノリティの例を挙げましたが、フェミニズムもまた他のマイノリティを差別してきた歴史があります。そして同時に、そうしたフェミニズムのなかでの差別に対しても、フェミニズムは絶えず批判を向けてきました。フェミニズムのなかからのフィクトセクシュアル差別もまた、このような歴史の一環として位置づけることができるでしょう[12]

5 対人性愛中心主義を説明するためのクィア理論

 ここまで具体的な周縁化の事例を見てきましたが、これを踏まえて最後に、フェミニズムクィアの連帯を目指すために、対人性愛中心主義がクィアスタディーズの文脈でどのように位置づけられるかを説明したいと思います。

 対人性愛中心主義というのは、生身の人間へ性的に惹かれることを「正常」なセクシュアリティとみなす社会規範です。この概念は理論的には、ミシェル・フーコーの言う「セクシュアリティの装置」の発展として位置づけられます。フーコーというと、婚姻の装置とセクシュアリティの装置の区別を強調している印象が強いかもしれません。ですがフーコーは「婚姻の装置と同じく、それ(セクシュアリティの装置:引用者注)は性的に結ばれた相手という関係に接合される」と述べています(Foucault 1976=1986: 136-7)。つまりセクシュアリティの装置もまた、他者との性的な結びつきを特権化するものなのです。この側面を引き継いでいるのが対人性愛中心主義概念だと言えます。そして対人性愛中心主義は、性的な対人関係を特権化するものですので、アセクシュアルや対物性愛の周縁化にも関わってきます[13]

 次に考えるべきなのは、対人性愛中心主義とジェンダー規範との関係です。これを考えるうえでは、異性愛者としての自己像がどのように形作られるのか、という問題が参考になります。

 ホモフォビア的な価値観が根強い状況では、異性愛者は「自分は異性愛者なのだ」と確信するために、「自分は同性愛者かもしれない」という可能性を予め排除しなければなりません。「自分は同性愛者かもしれない」という可能性を意識に上らないようにすることによって、「自分は異性愛者だ」ということに疑問を持たずに済ませることが可能になるのです。このことをバトラーは、異性愛主体は同性愛の可能性を「予め排除」することによって構成されるのだ、と論じています。

 ここで注目してほしいのが、異性愛主体が成り立つ前提に、「同性愛者ではない」から異性愛者であるはずだという機序があることです。ですが、同性愛者ではないからといって、なぜ異性愛者であると言えるのでしょうか。それは、異性愛か同性愛かの二択以外のセクシュアリティが想定されていないからです。同性愛を「予め排除」することで異性愛主体が成立するという現象が起こるとき、常に同時に、異性愛とも同性愛とも呼べないさまざまなあり方が抹消されているのです。

 異性愛/同性愛という差異が前景化されるとき、同時にそれ以外の差異にもとづくセクシュアリティが不可視化される。そのような状況は、異性/同性という二元論的なジェンダーこそがセクシュアリティにとって重要なのだという図式に根ざしています。このようにして、セクシュアリティの規範とジェンダーの規範が絡み合っているのです。

 そのことを概念化しているのが、バトラーの言う「〈字義どおり化〉という幻想」です。「〈字義どおり化〉という幻想」とは、「解剖学的」なセックスと、「自然なアイデンティティ」としてのジェンダーと、「自然な欲望」としての異性愛とが結びついているという思い込みのことです(Butler 1990=1999: 135)。ジェンダーに関する生物学的本質主義が、異性愛規範と結びついている、ということは、従来のフェミニズムクィアスタディーズで繰り返し指摘されてきたことです。

 ですが性別二元論‐異性愛規範‐生物学的本質主義の三位一体図式だけでは、アセクシュアルやフィクトセクシュアルなどが周縁化される仕方を説明できません。この問題を解消するためのヒントが、セクシュアリティの装置が他者との性的な結びつきを特権化するものだという、先ほどのフーコーの指摘です。規範的とされる異性愛は、他者との性的な結びつきを伴うものであり、一言で言えば性交(coitus)です。

 このことは、従来の議論ではあまりにも自明のこととされていたせいで、わざわざ言語化されてこなかったポイントです。ですがこのことを明確化することによって、性別二元論や異性愛規範がいかにフィクトセクシュアルの周縁化と関わっているのかが分かるようになります。すなわち、性別二元論と対人性愛中心主義の結びつきこそが異性愛規範なのです。これを図にしたのが、「〈字義どおり化〉という幻想」としてのジェンダーセクシュアリティ・スクエアです。

 

「〈字義どおり化〉という幻想」としてのジェンダーセクシュアリティ・スクエア

 

6 連帯に向けて

 以上のように、対人性愛中心主義は性別二元論や異性愛規範と密接に結びついています。それに加えて、強制的性愛や人間性愛規範のような、これまでの「主流」なクィアスタディーズが取りこぼしてきた問題とも重なるものです。それゆえ、対人性愛中心主義批判を起点として、フィクトセクシュアルや二次元性愛の運動はLGBTQやフェミニズムとも連帯が可能であり、また必要でもあるはずです[14]

 言うまでもなく、すべてのフィクトセクシュアルの人々が本質的にリベラルで反差別的であるわけではありません。LGBTQやフェミニストにもフィクトセクシュアル差別があるように、フィクトセクシュアルのなかにも反クィアや反フェミニズムという人はいると思いますし、今後はそうした問題を乗り越えていかなければなりません[15]

 ですが同時に、フィクトセクシュアルや二次元性愛(とりわけ二次元の女性キャラクターを愛好する男性)が、性的に保守的で反フェミニズム的だというステレオタイプを向けられることがあるという問題にも注意が必要です[16]。これはちょうど、アセクシュアル男性がインセルと誤認されることがあるという問題[17]と同じです。私たちの社会では、ある種のセクシュアリティを反差別と結びつけつつ、また別のタイプのセクシュアリティ保守主義や差別主義と結びつけるような言説が浸透しています。このような言説を問い直し、ネットワークを組み替えて、フィクトセクシュアルとフェミニズムクィアの連帯を促すような状況を作ること、それが必要だと思います。そして本日のお話が、そのようなネットワークを組み替える一助となれば、嬉しく思います。

 ご静聴ありがとうございました。

 

[1] たとえばフィクトセクシュアルのことを「恋愛してない=対人関係の構築がちゃんとできてない」のではないかとみなす書き込みがみられました。この見方は、フィクトセクシュアルを「異常」とみなす人だけでなく、フィクトセクシュアルの人自身にも、架空の対象に恋愛感情を抱くのはおかしいのではないかという不安を抱かせることがあります。

[2] その具体例が、「『自我を持ち、対等な立場でコミュニケーションが取れる』対象が相手ではない、という時点でズーフィリアやペドフィリアの同類なのでは」という書き込みです。

[3] フェミニズムの観点からは、同意はあるものの望んではいない性行為についても、同意のない性行為と同じような問題をもたらすことがあると指摘されています。同意それ自体を目的であるかのように考えてしまうと、フィクトセクシュアルの存在を抹消するだけでなく、同意はあるものの望んではいない性行為の問題も見落としてしまうことになります。同意は人間同士の性愛を営むうえで重要な方法ではありますが、「同意さえあれば完璧に問題なし」というように倫理的な「原理」かのごとく捉えるのは、フェミニズム的にも問題含みな帰結をもたらしかねない、という点に注意するべきでしょう。

[4] 対人関係の問題をフィクトセクシュアルの原因と決めつけるべきではないのと同時に、対人関係の困難やトラウマを抱えているフィクトセクシュアルを「本物のフィクトセクシュアルではない」と排除することも避けなければなりません。「原因」や「いつからフィクトセクシュアルだったか」にかかわらず、対人性愛を基準とする価値観を押し付けるべきではないということが重要なのです。

[5] たとえば1980年頃の「おたく」に対しても、モテない、性愛から逃避している、といった偏見が向けられていました(山中 2011; Galbraith 2019)。

[6] 2000年頃であれば斎藤環のように「おたく」をセクシュアリティによって定義する議論も成り立っていましたが、現在の日本では「オタク」が共通のセクシュアリティを有しているとは考えられていません。「オタクのセクシュアリティ」なるものは存在しないと言ってよいでしょう。

[7] ここまで挙げた言説は、日常的なやり取りやオンライン上の何気ない投稿のなかに表れているものです。このようなマイクロアグレッションによって、フィクトセクシュアルは異常視されたり存在を抹消されたりしています。ですがそれだけではなく、こうしたセクシュアリティに対しては、倫理的な非難や法的な規制という仕方での差別も向けられます。この事例については、荻野幸太郎さんの記事をご覧いただければと思います。

荻野幸太郎,2023,「私が「表現の自由」の仕事をするようになった理由」(https://note.com/ogino_kotaro/n/nb8f8da32684e),翻訳「我成為「表現自由」工作者的理由」(https://vocus.cc/article/648f0069fd89780001c04724

[8] 当のアクティヴィストは、その後批判を受け入れており、現在ではアセクシュアルについても包摂的な主張をしています。「Dan Savage Looks At What Has Changed In The 30 Years He's Been Giving Sex Advice」(https://www.npr.org/2021/09/24/1040550752/dan-savage-on-celebrating-30-years-of-savage-love-with-a-new-book

[9] 上野自身は明記していませんが、この論理では「マッチョな『オレ様』キャラを愛好する女性は、性差別的な異性愛を内面化し再生産している」としか認識されないことになってしまいます。

[10] 関連する論点として、以下の記事もご覧ください。松浦優,2023,「二次元美少女の性的表現を「女性(や子ども)の性的モノ化」と非難することの何が問題なのか」(https://mtwrmtwr.hatenablog.com/entry/2023/02/25/195000),翻訳「指責二次元美少女的性表現是「女性(或兒童的)性物化」的問題何在?」https://vocus.cc/article/648efa05fd89780001bfd46f

[11] たとえば上野は1980年代の文章で、異性愛こそが自然なセクシュアリティであるという前提のもとに、男性同性愛の根底にあるのは女性蔑視のイデオロギーであり、女性同性愛もまた男性への嫌悪と「ヘテロな交配に対するうらみ」だと主張していました(上野 1986: 14)。とはいえこの主張はその後大いに批判を浴び、上野自身も1990年代には非を認めています。

[12] もしかするとここまでの議論に対して、「とはいえ二次元と三次元をどちらも欲望する人もいるではないか、むしろ両方を欲望する人のほうが多数派なのではないか」と疑問を持つ人もいるかもしれません。たしかに二次元と三次元をどちらも欲望する人はいますが、だからといって対人性愛中心主義を批判すべきだということは変わりません。バイセクシュアルの存在を持ち出して異性愛規範への批判を無効化しようとするのと同じように不当な発想です。

 また、「たしかに二次元性愛は存在するかもしれないが、とはいえ対人性愛者が二次元の性的表現の影響で作られた欲望を生身の人間に向けることはあるのではないか」と思う方もいるかもしれません。たしかにそのような現象も起こりうるとは思います。ですがそれは、人間を欲望することによる問題ではないのでしょうか。対人性愛中心主義的な認識枠組みのもとで二次元性愛が抹消される状況や、二次元キャラクターのコンテンツに対人性愛中心主義を問い直す契機が含まれていることを考えれば、むしろ問われるべきは対人性愛の文化ではないでしょうか。仮に二次元の性的表現が生身の人間に関するジェンダー規範を再生産するとすれば、その問題は「対人性愛問題」として論じるべきだと思います。

[13] また対人性愛中心主義は、強制的性愛と人間性愛規範の組み合わさったものとも言えます。強制的性愛(compulsory sexuality)はアセクシュアルをめぐる運動や研究から生まれた概念で、セックスやセクシュアリティを他の活動よりも特別なものと位置づけ、自己形成や自己認識、健康、愛や親密性と結びつける規範のことです(Przybylo, 2016: 185)。人間性愛規範(humanonormativity)は対物性愛研究から生まれた概念で、「人間との性的関係は無生物と関係することよりも望ましい、あるいは自然であるという信念」(Motschenbacher 2014: 57)を指すものです。このふたつの規範は、いずれもフィクトセクシュアルを周縁化するものでもあります。このようにフィクトセクシュアルは、アセクシュアルや対物性愛と同じ構造のもとで周縁化されると言えます。

[14] 松浦優,2022,「対人性愛中心主義とシスジェンダー中心主義の共通点:「萌え絵広告問題」と「トランスジェンダーのトイレ使用問題」から」(https://mtwrmtwr.hatenablog.com/entry/2022/11/30/211753),翻訳「對人性戀中心主義與順性別中心主義的共通點:從「萌圖廣告問題」與「跨性別者的廁所使用問題」出發」(https://vocus.cc/article/648ef41ffd89780001bf7133

[15] 日本の場合、2ちゃんねる(現5ちゃんねる)などのインターネット文化で、2000年代から「左翼」的なものが忌避される傾向がありました。現在でも同じ傾向があり、インターネット文化に親和的な「オタク」(とくに男性)がフェミニズムを忌避しがちだと考えられています。この歴史的背景については海妻(2005)が、現在とそう変わらない状況をコンパクトに説明しています。

[16] また、BL研究がフェミニズムクィアの立場から盛んにおこなわれているのに対して、「夢」やself-shippingの研究が少ない、という偏りにも注意を向ける必要があるでしょう。

[17] アンジェラ・チェン(Chen 2020=2023)がいくつか事例を挙げています。

文献

  • 関連する拙論

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――――,2021,「日常生活の自明性によるクレイム申し立ての「予めの排除/抹消」――「性的指向」概念に適合しないセクシュアリティの語られ方に注目して」『現代の社会病理』36: 67-83.https://doi.org/10.50885/shabyo.36.0_67

――――,2022,「メタファーとしての美少女――アニメーション的な誤配によるジェンダー・トラブル」『現代思想』50(11): 63-75.

――――,2022,「アニメーション的な誤配としての多重見当識――非対人性愛的な「二次元」へのセクシュアリティに関する理論的考察」『ジェンダー研究』(25): 139-157.https://doi.org/10.24567/0002000551

――――,2023,「対人性愛中心主義批判の射程に関する検討――フェミニズムクィアスタディーズにおける対物性愛研究を踏まえて」『人間科学 共生社会学』(12): 21-38.https://researchmap.jp/mtwrmtwr/published_papers/40398528

――――,2023,「グローバルなリスク社会における倫理的普遍化による抹消――二次元の創作物を「児童ポルノ」とみなす非難における対人性愛中心主義を事例に」『社会分析』(50): 57-71.https://researchmap.jp/mtwrmtwr/published_papers/41326940

――――,2023,「抹消の現象学的社会学――類型化されないことをともなう周縁化について」『社会学評論』74(1): 158-174.(2024年にウェブ公開予定)

――――,2023,「雰囲気としての強制的(異)性愛――アセクシュアルを理解可能にするため現象学」稲原美苗・川崎唯史・中澤瞳・宮原優編『フェミニスト現象学――経験が響きあう場所へ』ナカニシヤ出版,111-130.

  • 日本語文献

東浩紀,1998,『存在論的、郵便的――ジャック・デリダについて』新潮社.

――――,2001,『動物化するポストモダン――オタクから見た日本社会』講談社

――――,2011,『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』河出書房新社

岩下朋世,2013,『少女マンガの表現機構――ひらかれたマンガ表現史と「手塚治虫」』NTT出版

上野千鶴子,1986,『女という快楽』勁草書房

――――,2018,『女ぎらい――ニッポンのミソジニー朝日新聞出版.

大塚英志,2009,『アトムの命題――手塚治虫と戦後まんがの主題』KADOKAWA

海妻径子,2005,「対抗文化としての〈反「フェミナチ」〉――日本における男性の周縁化とバックラッシュ」木村涼子編『ジェンダー・フリー・トラブル――バッシング現象を検証する』現代書館,35-53.

近藤顕彦編,2022,『二次元キャラクターとの結婚のしかた 第4版』(同人誌).

斎藤環,2000,『戦闘美少女の精神分析太田出版

――――,2003,『博士の奇妙な思春期』日本評論社

田中東子,2012,『メディア文化とジェンダー政治学――第三波フェミニズムの視点から』世界思想社

辻泉・岡部大介,2014,「今こそ,オタクを語るべき時である」宮台真司監修『オタク的想像力のリミット――〈歴史・空間・交流〉から問う』筑摩書房,7-30.

守如子,2010,『女はポルノを読む――女性の性欲とフェミニズム青弓社

山中智省,2011,「「おたく」史を開拓する――一九八〇年代の「空白の六年間」をめぐって」『横浜国大国語研究』28: 10-26.

  • 翻訳文献

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――――, 1993, Bodies That Matter: On the Discursive Limits of "Sex",Routledge.(佐藤嘉幸監訳,2021,『問題=物質となる身体 「セックス」の言説的境界について』以文社.)

――――, 1997, Excitable Speech: A Politics of the Performative, Routledge.(竹村和子訳,2015,『触発する言葉――言語・権力・行為体』岩波書店.)

Chen, Angela, 2020, ACE: What Asexuality reveals about Desire, Society, and the Meaning of Sex, Boston: Beacon Press.(羽生有希訳,2023,『ACE――アセクシュアルから見たセックスと社会のこと』左右社.)

Derrida, Jacques, 1980, (若森栄樹・大西雅一郎訳,2022,『絵葉書Ⅱ――ソクラテスからフロイトへ、そしてその彼方』水声社.)

Descola, Philippe, 2005, Par-delà nature et culture, Paris: Gallimard.(小林徹訳,2020,『自然と文化を越えて』水声社.)

Foucault, Michel, 1976, La volonté de savoir (Volume 1 de Histoire de la sexualité), Paris: Éditions Gallimard.(渡辺守章訳,1986,『性の歴史Ⅰ 知への意志』新潮社.)

Salih, Sara, 2002, Judith Butler, Routledge.(竹村和子訳,2005,『ジュディス・バトラー青土社.)

  • 英語文献

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