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活動目的

当団体は、フィクトセクシュアルや非対人性愛について、当事者の声を記録すること、および当事者の立場と学術的知見の双方にもとづいた情報を提供することを目的としています。

フィクトセクシュアルのプライドフラッグ

主な活動内容

・当事者の声の記録(同人誌の制作を予定しています(※現在原稿募集中です)

・当サイトやSNSでの情報発信

フィクトセクシュアル・パースペクティブとは

フィクトセクシュアル的な観点のこと。フィクトセクシュアルを自認する人々の見方だけでなく、より広く、対人性愛中心主義を問い直す視座のことを指します。当団体はこのような視座から活動していきます。対人性愛中心主義については用語解説のページをご覧ください。

団体概要

名称:Fictosexual Perspective

主催:松浦優(ご依頼等の連絡先はhttps://researchmap.jp/mtwrmtwrをご覧ください)

Twitter (X): https://twitter.com/FictPerspective

活動開始:2024年2月18日

フィクトセクシュアルに関する質問はこちら

メインコンテンツ

(最終更新日:2024年2月18日)

同人誌『Fictosexual Perspective』の原稿を募集いたします(エントリー〆切4月末)

●同人誌『Fictosexual Perspective』について

本誌は、フィクトセクシュアル当事者の経験やフィクトセクシュアルの観点からの思考を記録する同人誌です。コミケ文学フリマ東京などの同人誌即売会で頒布するほか、国立国会図書館への納本を予定しています(通販や電子版は今後検討します)。

本誌で言う「フィクトセクシュアルの観点」は、フィクトセクシュアルを自認する人々の見方だけでなく、より広く、対人性愛中心主義を問い直す視座のことを指します。対人性愛中心主義とは、フィクトセクシュアルの立場から提起された用語で、生身の人間へ性的に惹かれることを「望ましい」「あるべき」セクシュアリティだとする規範のことです。

●募集テーマ

以下のテーマでエッセイ原稿を募集いたします。

・自分のセクシュアリティに関する経験
(欲望や感覚、あるいは架空のキャラクターとの関係や、現実での人間関係での出来事など。ご自身の経験と、そこから考えたことや思ったことなどを自由に書いてください)

●投稿資格

下記のいずれかに該当する方
・フィクトセクシュアルあるいはフィクトロマンティックを自認している方
・対人性愛(生身の人間へ性的に惹かれること)とは異なるものとして、架空のキャラクターへ惹かれたり、性的/恋愛的な創作物を愛好したりしている方(フィクトセクシュアルやフィクトロマンティックと自認していない方も歓迎です)

●文字数

3000字〜15000字程度(応相談)

●提出先

投稿は事前エントリー制です。投稿希望の方は、下記のフォームにメールアドレス等の必要事項を記入してください。記入していただいたアドレスに、提出先についての説明をお送りいたします。

●〆切

エントリー期限は2024年4月末、原稿提出期限は2024年6月末といたします。ただしエントリーの数によっては、期限よりも早く募集を打ち切る場合があります。

●その他

・掲載された文章は、不特定多数の人に読まれたり、将来的に研究やメディア等で引用されたりする可能性があります。原則としてペンネームでの投稿をお願いします。
・寄稿者には謝礼として、完成品の原物もしくは電子データをお渡しいたします。原稿料や謝金はございませんので、あらかじめご了承ください*1
・1人で複数投稿していただいても構いません。
・基本的には提出いただいたものを(最小限の校正をしたうえで)そのまま掲載する予定ですが、全体の分量や構成との兼ね合い等の事情によっては、修正をお願いしたり、掲載をお断りしたりすることがあります。あらかじめご了承ください。

*1:本来であれば謝金を出すべきだと重々承知しておりますが、原稿を公募する同人誌というのが、主催者にとって初めての試みですので、今回はこのような形式としております。もしも想定よりも利益が出た場合には、何らかの形で寄稿者に還元するつもりです。

【コラム】「純愛」や「結婚」は分かりやすいけれど

※この記事は2019年9月28日にウェブサイト『RAINBOW LIFE』へ寄稿したコラムの再掲です。再掲にあたって最小限の修正をしています。

「純愛」や「結婚」は分かりやすいけれど

日本の場合はマンガやアニメなどのコンテンツが広く浸透していますので、フィクトセクシュアルやフィクトロマンティックなどが可視化されやすいのではないか、と思われるかもしれません。ただ、この点については注意すべき論点があります。

話題になりやすいトピックの例としての「純愛」「結婚」

まず、架空のキャラクターへの性愛について話題になりやすいのはどのような人なのか、ということを確認してみましょう。

少々古い例ですが、本田透という評論家が2005年に書いた『萌える男』という本があります。そこで本田は、二次元のキャラクターへの「萌え」こそが「純愛」であり、恋愛至上主義の末裔であると主張しました。ただし本田のエッセイは半分ぐらい「ネタ」として書かれている面がありますので、本田がどれほど本気でこの主張にコミットしていたかは分かりません。それでも当時のオタク論としては一定の影響力があったようです。

また2008年には、「2次元キャラとの結婚を法的に認めて下さい」というネット署名活動があったようです(元の署名サイトはすでに消えているようですが、当時のネット記事を確認できます→記事はこちら

昨年も二次元キャラとの結婚式を挙げた人が話題になったことを考えると、キャラクターとの「結婚」は注目されやすいトピックだと言えそうです。

マジョリティの枠組みで理解できる人ばかりが可視化されるという問題

もちろん上に挙げた例のほかにも、話題になるトピックはあるかと思います。また上に挙げた人々全員が「フィクトセクシュアル」としてのアイデンティティを持っているともかぎりません。とはいえ以上の事例は、「架空のキャラクターを性的対象/恋愛対象とする」という説明からイメージされやすいものではないかと思います。

さて、上の事例に共通することは何でしょうか。それは、現実での性愛実践の語彙で説明できる、ということです。言い換えれば、上で話題になっているのはいずれもマジョリティの実践を捉えるための枠組みで理解できる事例だ、ということです。

言うまでもなく、キャラクターとの「純愛」や「結婚」をすること自体は悪いものではありません。しかしここで問題になっているのは、そうした実践を取り巻く社会的な認識の枠組みの方です。

「架空のキャラクターを性的対象/恋愛対象とする」という説明は、しばしば暗黙のうちに「“現実での性愛実践と同じように” 架空のキャラクターを性的対象/恋愛対象とする」のだと認識されることがあります。

ですが一口に「架空のキャラクターを性的対象とする」と言っても、「架空のキャラクターとセックスしたい」という人ばかりではありません。たとえば、「架空のキャラクターにしか性的に興奮しないが、自分がキャラクターとセックスしたいとは思わない」という人もいるわけです(「そんなの当たり前でしょ」と思う人もいるかもしれませんが、そこに想像が及ばない人も一定数いるようです)。しかし「純愛」や「結婚」などに比べると、こうした人々の語りが広がることはあまりありません。

マジョリティにとって分かりやすい人だけが可視化され、その「分かりやすい」イメージばかりが先行しているのではないか……。このような現象は、架空のキャラクターへの性愛にかぎらず、多くのセクシュアル・マイノリティについても生じることです。

性的なことがらに対する感覚や経験は、人によって大きく異なります。だからこそ、自分とは異なる人々について、自分の認識枠組みだけで捉えてしまっていないか、注意をすることが必要です。

補足:エーゴセクシュアルについて

ちなみに余談ですが、「自分の自己意識と性的対象が分離している」セクシュアリティのことを「エーゴセクシュアル」(Aegosexual)と呼ぶこともあります。あえて単純な例を挙げれば、「性的空想はするけれど、その空想の内容を自分が実際にやってみたいとは思わない」というようなセクシュアリティです。エーゴセクシュアルもまたアセクシュアルに関する議論のなかで提起された概念であり、広義のアセクシュアルアセクシュアルスペクトラム)として捉えられています。

(著:松浦優)

【後編】フィクトセクシュアルから考えるジェンダー/セクシュアリティの政治【フェミニズム・クィアな連帯へ】

※前編と中編はこちら↓をご覧ください。

4 周縁化の事例

 4.1 あからさまな排除/マジョリティへの回収による抹消

 以前書いた論文で、フィクトセクシュアルに関するSNSの投稿を分析したのですが、そのときのデータをもとに、フィクトセクシュアルに対する差別的な言説をいくつか紹介いたします。まず典型的な偏見が、「正常」な対人関係を築くことができない人なのではないか、というステレオタイプです[1]

 これと関連するものとして、フィクトセクシュアルを一方的な支配の欲望であるかのようにみなす偏見もありました[2]。このような偏見は、先ほど触れたような架空のキャラクターとの双方向的な親密関係を生きている人々を攻撃するものです。それに加えて、ここには人間に対する倫理的なふるまいと同じことを、そっくりそのまま架空のキャラクターにも行うべきだという不当な価値判断が含まれています。こうした価値判断は、まさに二次元と三次元の違いに意味はないのだとほのめかすものであり、非対人性愛としてのフィクトセクシュアルの存在を否定するものでもあります。

 これと関連する話ですが、架空のキャラクターとの結婚に対するウェブ上の反応として、「架空のキャラクターとは同意が取れないではないか」という書き込みが少なからずありました。たしかに生身の人間であれば、相手の心身に危害や不利益を与えないために、同意が重要となるかもしれません。ですが架空のキャラクターは、人間とは異なる存在である(さらに言えば生物ではない)ため、人間と同じ仕方で傷つくわけではないはずです。それに加えて、同意は人間同士の性愛においてさえ、倫理的な原理とはなりえません[3]。何のために同意が必要なのか、ということをきちんと考えるべきでしょう。

 このほか、「本当は生身の人間を欲望しているが、それが難しいので代わりに架空のキャラクターを欲望しているのだ」という誤認もあります。たとえばフィクトセクシュアルは「非モテ」と結びつけて認識され、「性愛から逃避している」「モテないことの言い訳」とみなされることがあります。あるいは、対人関係や性愛に対するトラウマが原因でフィクトセクシュアルになったのではないかと疑われることもあります。

 たしかに、対人関係での困難やトラウマを抱えているフィクトセクシュアルの人もいます。他方で私の調査では、こうした固定観念を批判している当事者もいました。また、フィクトセクシュアルのなかには、幼少期から架空のキャラクターに性的欲望や恋愛感情が向いており、生身の人間にはずっと性的・恋愛的に惹かれなかったという人もいます。フィクトセクシュアルと一口に言っても、そのなかには多様な人々がいるということを忘れないでください[4]

 架空のキャラクターを欲望することに対する偏見は、40年前の「おたく」蔑視にも含まれていました[5]。ただし日本では2010年頃から「オタク」が一般化しており、大人がアニメやマンガを受容することも珍しくなくなっています(辻・岡部 2014)。現在では、「オタク」はせいぜいアニメやマンガやゲームあるいはアイドルなどのコンテンツを愛好している人、という程度のニュアンスになっており、ある意味「ただの趣味」になっているのです[6]

 このような社会では、架空のキャラクターにハマることは趣味のひとつと認識されます。その結果、フィクトセクシュアルは「ただの趣味」とみなされることもあります。これは一見すると問題ないように見えるかもしれません。ですがそこでは、フィクトセクシュアルや二次元性愛がセクシュアリティとして理解されません。また、対人性愛中心主義的な認識枠組みや価値観を相対化するという視座も失われてしまいます。いわばマジョリティへ回収されることによって抹消されるのです。このような抹消もまた、フィクトセクシュアルを不可視化し、フィクトセクシュアルが周縁化される構造を温存するものなのです[7]

 4.2 LGBTコミュニティからの無理解

 ここまで述べてきたように、フィクトセクシュアルもまたある種の性的マイノリティとして差別を経験することがあります。とはいえ、いわゆるLGBTコミュニティの人々がフィクトセクシュアルについて理解しているかというと、必ずしもそうではありません。背景として、架空のキャラクターへ惹かれることをセクシュアリティクィアの観点から捉えるための語彙や理論がなかった、という問題があります。

 これは韓国の方にインタビューしたときに聞いた話ですが、「二次元キャラクターを性的に好きになるのは、ある意味で性的マイノリティではないか」という趣旨の書き込みをツイッターで投稿したところ、それに対して20~30人ぐらいから連続で非難を受けた、という経験を語っていました。特に多かったのがゲイ男性からの非難で、加えてフェミニストからの非難もあったそうです。日本でも、二次元キャラクターへ惹かれることを性的マイノリティの文脈で捉える見方はほとんどありません。今でもLGBTとフィクトセクシュアルや二次元性愛の間には距離があると言ってよいでしょう。

 こうした問題は、たとえばアセクシュアルに対するLGBTコミュニティからの差別と共通するものです。アメリカでの事例ですが、アセクシュアルの人々がプライドパレードに参加した際に、ある著名なLGBTアクティヴィストが、アセクシュアルは「セックスしないことを選択している」だけなのだからプライドパレードに出る必要なんてないだろう、と揶揄したという出来事がありました[8]。これと同じような認識が、フィクトセクシュアルに対しても向けられることがあると考えられます。

 もちろん、LGBTアセクシュアルでは差別の歴史や経験が異なりますし、そもそもL、G、B、Tでもそれぞれ異なる状況に置かれています。それと同じく、フィクトセクシュアルもまたLGBTアセクシュアルとは異なる歴史や経験を有しています。しかし同時に、LGBTアセクシュアルを周縁化する構造はフィクトセクシュアルを周縁化するものでもありますで、さまざまな性的マイノリティの連帯を目指すことが重要だと思います。

 4.3 フェミニズムからの無理解

 同じ問題はLGBTだけでなくフェミニズムでも起こっています。一例ですが、上野千鶴子は『女ぎらい』のなかで、「女性性の記号」だけに欲情することを「女を性欲の道具としか見なさない」ミソジニーだと批判しつつ(上野 2018: 11)、「男が現実の女から「逃走」して、ヴァーチャルな女に「萌え」るのは、昔も今も同じ」(上野 2018: 26)だと述べて、二次元の女性キャラクターに対する欲望もまた人間の女性に対する欲望と同じく、「誘惑者としての女がすすんで男の欲望に従うあいもかわらぬ男につごうのよい男権主義的な性幻想を再生産している」(上野 2018: 99)と示唆しています。このような認識は上野だけのものではなく、むしろ多くのフェミニストが共有しているものです。ですがこのような批判は、男/女の差異に焦点を当てることによって、二次元と三次元の違いを完全に無視しています[9]。まさに二元論的な性的差異を根源的なものとみなすことによって、二次元性愛の存在を抹消しているのです[10]

 このような抹消は、フェミニズム内部でのホモフォビアと同じ構図です。現在では少なくなったと思いますが、1980年代頃まではフェミニズムの名のもとに同性愛差別が行なわれることもありました。そうした差別は、ジェンダーの差異を根源的なものとする見方によって、同性愛の存在を実質的に否定するものでした[11]

 また近年では、トランスジェンダーに対する差別が世界的に力を増しています。日本も例外ではありません。なかには「女性を守るため」という題目のもとにトランスジェンダーを差別しているケースも起こっています。こうした差別言説の例として、「トランス女性は女性用トイレを使うべきではない」とか「トランス女性が女性用トイレを使えるようにすると性犯罪が増えるのではないか」という主張が挙げられます。こうした主張が問題なのは、実質的にトランス女性を「男性」だとみなしていることです。つまりそのような主張は、トランスジェンダーの存在を実質的に否定するものなのです。これもまた、男/女を根源的な差異とみなしながら、シス/トランスという別の差異を否定するものだと言えます。

 ここでは性的マイノリティの例を挙げましたが、フェミニズムもまた他のマイノリティを差別してきた歴史があります。そして同時に、そうしたフェミニズムのなかでの差別に対しても、フェミニズムは絶えず批判を向けてきました。フェミニズムのなかからのフィクトセクシュアル差別もまた、このような歴史の一環として位置づけることができるでしょう[12]

5 対人性愛中心主義を説明するためのクィア理論

 ここまで具体的な周縁化の事例を見てきましたが、これを踏まえて最後に、フェミニズムクィアの連帯を目指すために、対人性愛中心主義がクィアスタディーズの文脈でどのように位置づけられるかを説明したいと思います。

 対人性愛中心主義というのは、生身の人間へ性的に惹かれることを「正常」なセクシュアリティとみなす社会規範です。この概念は理論的には、ミシェル・フーコーの言う「セクシュアリティの装置」の発展として位置づけられます。フーコーというと、婚姻の装置とセクシュアリティの装置の区別を強調している印象が強いかもしれません。ですがフーコーは「婚姻の装置と同じく、それ(セクシュアリティの装置:引用者注)は性的に結ばれた相手という関係に接合される」と述べています(Foucault 1976=1986: 136-7)。つまりセクシュアリティの装置もまた、他者との性的な結びつきを特権化するものなのです。この側面を引き継いでいるのが対人性愛中心主義概念だと言えます。そして対人性愛中心主義は、性的な対人関係を特権化するものですので、アセクシュアルや対物性愛の周縁化にも関わってきます[13]

 次に考えるべきなのは、対人性愛中心主義とジェンダー規範との関係です。これを考えるうえでは、異性愛者としての自己像がどのように形作られるのか、という問題が参考になります。

 ホモフォビア的な価値観が根強い状況では、異性愛者は「自分は異性愛者なのだ」と確信するために、「自分は同性愛者かもしれない」という可能性を予め排除しなければなりません。「自分は同性愛者かもしれない」という可能性を意識に上らないようにすることによって、「自分は異性愛者だ」ということに疑問を持たずに済ませることが可能になるのです。このことをバトラーは、異性愛主体は同性愛の可能性を「予め排除」することによって構成されるのだ、と論じています。

 ここで注目してほしいのが、異性愛主体が成り立つ前提に、「同性愛者ではない」から異性愛者であるはずだという機序があることです。ですが、同性愛者ではないからといって、なぜ異性愛者であると言えるのでしょうか。それは、異性愛か同性愛かの二択以外のセクシュアリティが想定されていないからです。同性愛を「予め排除」することで異性愛主体が成立するという現象が起こるとき、常に同時に、異性愛とも同性愛とも呼べないさまざまなあり方が抹消されているのです。

 異性愛/同性愛という差異が前景化されるとき、同時にそれ以外の差異にもとづくセクシュアリティが不可視化される。そのような状況は、異性/同性という二元論的なジェンダーこそがセクシュアリティにとって重要なのだという図式に根ざしています。このようにして、セクシュアリティの規範とジェンダーの規範が絡み合っているのです。

 そのことを概念化しているのが、バトラーの言う「〈字義どおり化〉という幻想」です。「〈字義どおり化〉という幻想」とは、「解剖学的」なセックスと、「自然なアイデンティティ」としてのジェンダーと、「自然な欲望」としての異性愛とが結びついているという思い込みのことです(Butler 1990=1999: 135)。ジェンダーに関する生物学的本質主義が、異性愛規範と結びついている、ということは、従来のフェミニズムクィアスタディーズで繰り返し指摘されてきたことです。

 ですが性別二元論‐異性愛規範‐生物学的本質主義の三位一体図式だけでは、アセクシュアルやフィクトセクシュアルなどが周縁化される仕方を説明できません。この問題を解消するためのヒントが、セクシュアリティの装置が他者との性的な結びつきを特権化するものだという、先ほどのフーコーの指摘です。規範的とされる異性愛は、他者との性的な結びつきを伴うものであり、一言で言えば性交(coitus)です。

 このことは、従来の議論ではあまりにも自明のこととされていたせいで、わざわざ言語化されてこなかったポイントです。ですがこのことを明確化することによって、性別二元論や異性愛規範がいかにフィクトセクシュアルの周縁化と関わっているのかが分かるようになります。すなわち、性別二元論と対人性愛中心主義の結びつきこそが異性愛規範なのです。これを図にしたのが、「〈字義どおり化〉という幻想」としてのジェンダーセクシュアリティ・スクエアです。

 

「〈字義どおり化〉という幻想」としてのジェンダーセクシュアリティ・スクエア

 

6 連帯に向けて

 以上のように、対人性愛中心主義は性別二元論や異性愛規範と密接に結びついています。それに加えて、強制的性愛や人間性愛規範のような、これまでの「主流」なクィアスタディーズが取りこぼしてきた問題とも重なるものです。それゆえ、対人性愛中心主義批判を起点として、フィクトセクシュアルや二次元性愛の運動はLGBTQやフェミニズムとも連帯が可能であり、また必要でもあるはずです[14]

 言うまでもなく、すべてのフィクトセクシュアルの人々が本質的にリベラルで反差別的であるわけではありません。LGBTQやフェミニストにもフィクトセクシュアル差別があるように、フィクトセクシュアルのなかにも反クィアや反フェミニズムという人はいると思いますし、今後はそうした問題を乗り越えていかなければなりません[15]

 ですが同時に、フィクトセクシュアルや二次元性愛(とりわけ二次元の女性キャラクターを愛好する男性)が、性的に保守的で反フェミニズム的だというステレオタイプを向けられることがあるという問題にも注意が必要です[16]。これはちょうど、アセクシュアル男性がインセルと誤認されることがあるという問題[17]と同じです。私たちの社会では、ある種のセクシュアリティを反差別と結びつけつつ、また別のタイプのセクシュアリティ保守主義や差別主義と結びつけるような言説が浸透しています。このような言説を問い直し、ネットワークを組み替えて、フィクトセクシュアルとフェミニズムクィアの連帯を促すような状況を作ること、それが必要だと思います。そして本日のお話が、そのようなネットワークを組み替える一助となれば、嬉しく思います。

 ご静聴ありがとうございました。

 

[1] たとえばフィクトセクシュアルのことを「恋愛してない=対人関係の構築がちゃんとできてない」のではないかとみなす書き込みがみられました。この見方は、フィクトセクシュアルを「異常」とみなす人だけでなく、フィクトセクシュアルの人自身にも、架空の対象に恋愛感情を抱くのはおかしいのではないかという不安を抱かせることがあります。

[2] その具体例が、「『自我を持ち、対等な立場でコミュニケーションが取れる』対象が相手ではない、という時点でズーフィリアやペドフィリアの同類なのでは」という書き込みです。

[3] フェミニズムの観点からは、同意はあるものの望んではいない性行為についても、同意のない性行為と同じような問題をもたらすことがあると指摘されています。同意それ自体を目的であるかのように考えてしまうと、フィクトセクシュアルの存在を抹消するだけでなく、同意はあるものの望んではいない性行為の問題も見落としてしまうことになります。同意は人間同士の性愛を営むうえで重要な方法ではありますが、「同意さえあれば完璧に問題なし」というように倫理的な「原理」かのごとく捉えるのは、フェミニズム的にも問題含みな帰結をもたらしかねない、という点に注意するべきでしょう。

[4] 対人関係の問題をフィクトセクシュアルの原因と決めつけるべきではないのと同時に、対人関係の困難やトラウマを抱えているフィクトセクシュアルを「本物のフィクトセクシュアルではない」と排除することも避けなければなりません。「原因」や「いつからフィクトセクシュアルだったか」にかかわらず、対人性愛を基準とする価値観を押し付けるべきではないということが重要なのです。

[5] たとえば1980年頃の「おたく」に対しても、モテない、性愛から逃避している、といった偏見が向けられていました(山中 2011; Galbraith 2019)。

[6] 2000年頃であれば斎藤環のように「おたく」をセクシュアリティによって定義する議論も成り立っていましたが、現在の日本では「オタク」が共通のセクシュアリティを有しているとは考えられていません。「オタクのセクシュアリティ」なるものは存在しないと言ってよいでしょう。

[7] ここまで挙げた言説は、日常的なやり取りやオンライン上の何気ない投稿のなかに表れているものです。このようなマイクロアグレッションによって、フィクトセクシュアルは異常視されたり存在を抹消されたりしています。ですがそれだけではなく、こうしたセクシュアリティに対しては、倫理的な非難や法的な規制という仕方での差別も向けられます。この事例については、荻野幸太郎さんの記事をご覧いただければと思います。

荻野幸太郎,2023,「私が「表現の自由」の仕事をするようになった理由」(https://note.com/ogino_kotaro/n/nb8f8da32684e),翻訳「我成為「表現自由」工作者的理由」(https://vocus.cc/article/648f0069fd89780001c04724

[8] 当のアクティヴィストは、その後批判を受け入れており、現在ではアセクシュアルについても包摂的な主張をしています。「Dan Savage Looks At What Has Changed In The 30 Years He's Been Giving Sex Advice」(https://www.npr.org/2021/09/24/1040550752/dan-savage-on-celebrating-30-years-of-savage-love-with-a-new-book

[9] 上野自身は明記していませんが、この論理では「マッチョな『オレ様』キャラを愛好する女性は、性差別的な異性愛を内面化し再生産している」としか認識されないことになってしまいます。

[10] 関連する論点として、以下の記事もご覧ください。松浦優,2023,「二次元美少女の性的表現を「女性(や子ども)の性的モノ化」と非難することの何が問題なのか」(https://mtwrmtwr.hatenablog.com/entry/2023/02/25/195000),翻訳「指責二次元美少女的性表現是「女性(或兒童的)性物化」的問題何在?」https://vocus.cc/article/648efa05fd89780001bfd46f

[11] たとえば上野は1980年代の文章で、異性愛こそが自然なセクシュアリティであるという前提のもとに、男性同性愛の根底にあるのは女性蔑視のイデオロギーであり、女性同性愛もまた男性への嫌悪と「ヘテロな交配に対するうらみ」だと主張していました(上野 1986: 14)。とはいえこの主張はその後大いに批判を浴び、上野自身も1990年代には非を認めています。

[12] もしかするとここまでの議論に対して、「とはいえ二次元と三次元をどちらも欲望する人もいるではないか、むしろ両方を欲望する人のほうが多数派なのではないか」と疑問を持つ人もいるかもしれません。たしかに二次元と三次元をどちらも欲望する人はいますが、だからといって対人性愛中心主義を批判すべきだということは変わりません。バイセクシュアルの存在を持ち出して異性愛規範への批判を無効化しようとするのと同じように不当な発想です。

 また、「たしかに二次元性愛は存在するかもしれないが、とはいえ対人性愛者が二次元の性的表現の影響で作られた欲望を生身の人間に向けることはあるのではないか」と思う方もいるかもしれません。たしかにそのような現象も起こりうるとは思います。ですがそれは、人間を欲望することによる問題ではないのでしょうか。対人性愛中心主義的な認識枠組みのもとで二次元性愛が抹消される状況や、二次元キャラクターのコンテンツに対人性愛中心主義を問い直す契機が含まれていることを考えれば、むしろ問われるべきは対人性愛の文化ではないでしょうか。仮に二次元の性的表現が生身の人間に関するジェンダー規範を再生産するとすれば、その問題は「対人性愛問題」として論じるべきだと思います。

[13] また対人性愛中心主義は、強制的性愛と人間性愛規範の組み合わさったものとも言えます。強制的性愛(compulsory sexuality)はアセクシュアルをめぐる運動や研究から生まれた概念で、セックスやセクシュアリティを他の活動よりも特別なものと位置づけ、自己形成や自己認識、健康、愛や親密性と結びつける規範のことです(Przybylo, 2016: 185)。人間性愛規範(humanonormativity)は対物性愛研究から生まれた概念で、「人間との性的関係は無生物と関係することよりも望ましい、あるいは自然であるという信念」(Motschenbacher 2014: 57)を指すものです。このふたつの規範は、いずれもフィクトセクシュアルを周縁化するものでもあります。このようにフィクトセクシュアルは、アセクシュアルや対物性愛と同じ構造のもとで周縁化されると言えます。

[14] 松浦優,2022,「対人性愛中心主義とシスジェンダー中心主義の共通点:「萌え絵広告問題」と「トランスジェンダーのトイレ使用問題」から」(https://mtwrmtwr.hatenablog.com/entry/2022/11/30/211753),翻訳「對人性戀中心主義與順性別中心主義的共通點:從「萌圖廣告問題」與「跨性別者的廁所使用問題」出發」(https://vocus.cc/article/648ef41ffd89780001bf7133

[15] 日本の場合、2ちゃんねる(現5ちゃんねる)などのインターネット文化で、2000年代から「左翼」的なものが忌避される傾向がありました。現在でも同じ傾向があり、インターネット文化に親和的な「オタク」(とくに男性)がフェミニズムを忌避しがちだと考えられています。この歴史的背景については海妻(2005)が、現在とそう変わらない状況をコンパクトに説明しています。

[16] また、BL研究がフェミニズムクィアの立場から盛んにおこなわれているのに対して、「夢」やself-shippingの研究が少ない、という偏りにも注意を向ける必要があるでしょう。

[17] アンジェラ・チェン(Chen 2020=2023)がいくつか事例を挙げています。

文献

  • 関連する拙論

松浦優,2021,「二次元の性的表現による「現実性愛」の相対化の可能性――現実の他者へ性的に惹かれない「オタク」「腐女子」の語りを事例として」『新社会学研究』(5): 116-136.

――――,2021,「日常生活の自明性によるクレイム申し立ての「予めの排除/抹消」――「性的指向」概念に適合しないセクシュアリティの語られ方に注目して」『現代の社会病理』36: 67-83.https://doi.org/10.50885/shabyo.36.0_67

――――,2022,「メタファーとしての美少女――アニメーション的な誤配によるジェンダー・トラブル」『現代思想』50(11): 63-75.

――――,2022,「アニメーション的な誤配としての多重見当識――非対人性愛的な「二次元」へのセクシュアリティに関する理論的考察」『ジェンダー研究』(25): 139-157.https://doi.org/10.24567/0002000551

――――,2023,「対人性愛中心主義批判の射程に関する検討――フェミニズムクィアスタディーズにおける対物性愛研究を踏まえて」『人間科学 共生社会学』(12): 21-38.https://researchmap.jp/mtwrmtwr/published_papers/40398528

――――,2023,「グローバルなリスク社会における倫理的普遍化による抹消――二次元の創作物を「児童ポルノ」とみなす非難における対人性愛中心主義を事例に」『社会分析』(50): 57-71.https://researchmap.jp/mtwrmtwr/published_papers/41326940

――――,2023,「抹消の現象学的社会学――類型化されないことをともなう周縁化について」『社会学評論』74(1): 158-174.(2024年にウェブ公開予定)

――――,2023,「雰囲気としての強制的(異)性愛――アセクシュアルを理解可能にするため現象学」稲原美苗・川崎唯史・中澤瞳・宮原優編『フェミニスト現象学――経験が響きあう場所へ』ナカニシヤ出版,111-130.

  • 日本語文献

東浩紀,1998,『存在論的、郵便的――ジャック・デリダについて』新潮社.

――――,2001,『動物化するポストモダン――オタクから見た日本社会』講談社

――――,2011,『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』河出書房新社

岩下朋世,2013,『少女マンガの表現機構――ひらかれたマンガ表現史と「手塚治虫」』NTT出版

上野千鶴子,1986,『女という快楽』勁草書房

――――,2018,『女ぎらい――ニッポンのミソジニー朝日新聞出版.

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【中編】フィクトセクシュアルから考えるジェンダー/セクシュアリティの政治【二次元であることの意味】

※前編はこちら↓をご覧ください。

3 二次元性愛の存在を説明するためのクィア理論

 3.1 問題=物質となる記号的身体

 ここまで二次元性愛の欲望や実践について見てきましたが、こうしたセクシュアリティはどのようにして可能になるのでしょうか。このことを、すこし理論的な話になりますが、説明していきたいと思います。そのために、まずは欲望の対象となっている「二次元」なるものについての考察から始めましょう。

 二次元キャラクターというのは、単なる「虚構の人間」ではなく、まさに二次元キャラクターという独自の存在物なのです。二次元キャラクターは情報集積として存在しています。これは東浩紀の説明ですが、二次元キャラクターは物語に存在依存しない「物語なしの情報の集合体」です。このような存在としての二次元キャラクターを、東は「大きな非物語」と呼んでいます(東 2001: 61-2)。さらに、個々のキャラクターの構成要素となる情報があり、その要素の総体を東は「データベース」と呼んでいます。こうした用語を借りれば、データベースのなかのいくつかの要素を組み合わせた「情報の束」が二次元キャラクターだと言えます。

 しかしながら、物質的な実体を欠いた「純粋な情報集積そのもの」が存在するわけではありません。二次元キャラクターが存在するためには、なんらかの仕方で「表現」されることが必要です。これは表現論の問題になりますが、二次元キャラクターは多かれ少なかれ非写実的な表現様式を含みつつ、絵や文章や音声などによって表現されると言えます。

 ただし厳密に言うと、「表現される」という説明は不正確です[1]。オタク論やマンガ表現論で繰り返し指摘されてきたように、絵や記号それ自体が二次元キャラクターの身体となる(そしてその絵や記号こそが欲望の対象となる)と捉えるべきなのです。これを理論的に言い換えれば、二次元キャラクターの肉体性は絵や記号として物質化されるのだ、と言えるでしょう。

 さらにキャラクターを「表現」することは、固定的な実体としてのキャラクターがあらかじめ存在していて、それを写し取る、というものではありません。マンガやアニメが分かりやすいですが、同じキャラクターを新たなコマや新たなシーンで描くことによって、そのキャラクターの新たな一面が生み出されます。つまり情報集積としてのキャラクターは、表現されることによって遡及的に構築されるものなのです[2]。つまり二次元キャラクターは表現行為を通してパフォーマティヴに構築されるのです[3]

 そして二次元キャラクターの存在をとらえるうえで参考になる理論が、テリ・シルヴィオの「アニメーション」概念です。シルヴィオはパフォーマンスのパラダイムで説明できないことがらがあると指摘したうえで、パフォーマンス/アニメーションという対概念を提示します[4]。詳しくは注に書いていますが、シルヴィオのアニメーション概念は、自己から切り離された非‐自己の構築、という特徴を上手く捉えています。このようなアニメーション実践によって二次元キャラクターは構築されるのです[5]

 以上をまとめると、二次元キャラクターは、アニメーション実践によってパフォーマティヴに構築され、絵や記号として物質化される、情報集積であると言えます[6]。二次元キャラクターは、絵や記号としての肉体性を有しつつ、同時に人間のような「魂」を帰属されているわけです。これは以前からオタク論でも指摘されていて、たとえば東浩紀はオタクの実践について、「キャラクターを、一方で文字や絵として扱いつつ、他方で『人格』とも見なす」と説明しています(東 2011: 92)。

 このような、記号的身体が内面をもつものとして受容されることは、しばしば「矛盾」と形容されてきました(大塚 2009)。しかしそれが「矛盾」とみなされるのは、西洋近代的な存在論を前提としているからです[7]。大雑把に言ってしまえば、二次元キャラクターは人間ではない(non-human)が、しかし私たちは二次元キャラクターに人格(personality)[8]を帰属することがある、ということなのです。「人間」と「人格」を別の概念と考えれば、論理的な意味での矛盾はないでしょう[9]

 3.2 《アニメーション》による誤配がもたらす攪乱

 それでは、二次元をめぐるセクシュアリティはいかにして存在可能となっているのでしょうか。このことを、東浩紀による誤配論と、ジュディス・バトラーのパフォーマティヴィティ論との比較を通して、クィア理論的に説明していきたいと思います。

 東とバトラーの共通点は、ともにデリダの思想から大きな影響を受けていることです。東はデリダの論文「真理の配達人」をもとに、文字や記号による意味伝達の失敗について考察しています。そこで東が注目するのは、「手紙は宛先に届かないことが常にありうる」(Derrida 1980=2022: 251)というデリダの理論です。手紙が届けば、そこに書かれた文字は記号として機能し、読み手に何らかの意味を伝えます。その記号は誤読される可能性もありますし、ある種の誤読を通じて別の文脈に流用的に引用される可能性もありますが、しかし誤読もまた手紙が届いたときに生じる現象です。これに対して、文字=手紙が届かないというのは、配達途中で紛失してしまったり、あるいはバラバラになってしまったりするような状況です。これが東の言う誤配です。このようなことが起こりうるのは、文字=手紙が単なる記号ではなく物質的なものだからです[10]

 そして文字=手紙が届かないことの例として、文字であるはずのものが文字として認識されない、ということがあります。文字は何らかの事物や意味を代理=表象する記号であるはずです。にもかかわらず、他の何かを指し示す記号だったはずの文字が、記号としての機能を失い、別の物になることがあるのです。このような誤配可能性は「シンボルがイメージとして、つまり文字が絵として受容されうる可能性」(東 2011: 109)だと言い換えることができます[11]

 二次元キャラクターという存在の成立とは、まさにこのような事態なのです。具体的に言えば、人間を指し示す記号だったはずの図像が、それ自体として新たなカテゴリーの存在物となること。これこそがアニメーションによる誤配です。このことを東は、「アニメオタク」が「描かれたキャラクターを、一方でイメージ(絵)として、他方でシンボル(人間を表す記号)として処理している」と説明しています(東 2011: 107)。これが、「絵」でありつつ「人格」(内面性)を有している存在としての二次元キャラクターが成立するという事態なのです。

 そして二次元キャラクターという新たなタイプの存在物は、ジェンダーセクシュアリティをめぐるあり方にも変化をもたらします。バトラーに倣ってこの変化を「攪乱」と言ってもよいでしょう。アニメーションによる誤配がもたらす攪乱とは、以前には存在しなかったカテゴリーの存在物をアニメーションによって構築することを通して、知覚の仕方や欲望のあり方を変容させることなのです。

 そのような誤配の例として、二次元性愛というセクシュアリティが対人性愛から独立したものとして成立することが挙げられます[12]。これに加えて、アニメーションはジェンダーに関する誤配ももたらしています。それが先ほど述べた、「『生身の人間の女性』と『二次元の女性キャラクター』は『同性』であるとはかぎらない」という現象です。もちろんこれは「生身の人間の男性」と「二次元の男性キャラクター」でも同じです[13]。こうしたセクシュアリティジェンダーの誤配は、単なる思考実験ではなく、実際に起こっているものなのです。

 そしてこの攪乱は、男/女や異性/同性という、二元論的な性的差異に疑問を投げかけるものです。このことは、バトラーと東がいずれもデリダ的な仕方で、ジャック・ラカンのファルス中心主義を批判しているということと関わっています。ラカンデリダも非常に複雑な理論を展開していますが、ここでは私の発表に関わる範囲に絞って、なるべく簡略化した説明をしたいと思います。

 ラカンの立場では、ファルスは男性/女性という性的差異を決定づけるものです[14]。そこでは、「ファルスをもつ」のが男性、「ファルスである」のが女性だとされます。ファルス中心主義は、この構図を絶対的なものとみなす考え方です。それゆえファルス中心主義は、男/女の性的差異を根源的な差異とみなす考え方であり、同時に男性中心主義的なものでもあります。

 このようなファルス中心主義を批判しているのが、先ほどの「文字=手紙は届かないことがありうる」というデリダの指摘なのです。ここでデリダの言う「文字=手紙」はそのまま「ファルス」に置き換えることができます。ラカンはファルスをただひとつの特権的シニフィアンとみなしており、そこでファルスは「分割不能であり、したがって破壊不能」とされていました(Derrida 1980=2022: 249)。しかし手紙の例と同じように、ファルスにも「シニフィアンの分割可能性」(Derrida 1980=2022: 309)が常にまとわりついています。つまりファルスもまた誤配可能性にさらされているのです。だからこそ、誤配によるジェンダーセクシュアリティの複数化が可能なのです[15]

 こうしたデリダ=東の誤配論は、ラカン批判という側面ではバトラーの理論と共通しています[16]。詳しくは注をご覧いただきたいですが、要するにバトラーが強調してきたのは、男/女という性的差異を基盤的なものとみなす立場が、同性愛やトランスジェンダーを予め排除したり(Butler 1990=1999)、人種の差異を切り捨てたりしてしまう(Butler 1993=2021: 248)、ということです。そしてここに私が付け加えるのは、次元の差異、つまり二次元と三次元の存在論的な違いもまた、性的差異を根源的なものとみなす発想によって抹消されるのだということなのです。

 他方で、バトラーのパフォーマティヴィティとアニメーションには違いもあります。バトラーが論じているパフォーマティヴな攪乱は、あくまで「意味づけ」や「規範の引用」という人間の実践によるものでした。これに対してアニメーションによる誤配は、非‐人間の物質性、具体的には絵や記号の物質性によってもたらされるものです。つまりアニメーションによる誤配は、意味のやり取りを行う人間だけの問題ではなく、そのやり取りに介在している情報伝達の回路において生じるものと言えます。それゆえ東浩紀の説明を借りれば、「『言葉が書き手の意図を裏切って別のことを意味してしまう』状況は(……)発話者と受話者とのあいだに広がるネットワークから分析される」(東 1998: 172)必要があるのです。

 この違いは、攪乱の生じ方にも違いをもたらしています。まずバトラーが注意を促すのは、表現やテクストの「意味づけなおしの可能性」(Butler 1997=2015: 109)です。そのためバトラーの理論は、規範的とされる言説資源をマイノリティがパロディ的に引用する主体的実践や、カルチュラル・スタディーズにおける能動的オーディエンス論と関連づけられてきました[17](e.g. 田中 2012)。

 これに対してアニメーションによる誤配は、「引用」したものを「意味づけなおす」というよりも、むしろ情報のネットワークや諸存在のネットワークを組み替えるのです。そしてこの誤配は、人間の意識的あるいは無意識的な主体性とは無関係に起こりえます。たとえば、かわいい美少女キャラクターを描いたり愛好したりする営みにおいて、かわいさを規範的な女性らしさとみなす価値観への批判は(意識的にも無意識的にも)企図されていないように見えます。ですが二次元キャラクターという存在者が成立している状況では、「かわいさ」を帰属する宛先が人間ではなく二次元キャラクターに変わります。ここにおいて、人間の女性にかわいさを要求する慣習が、二次元の女性キャラクターのかわいさを求めるという異なる営みへと変容しているのです。

 女性性のステレオタイプを素材としてアニメートされた対象が、人間の女性から引き剥がされて独立し、人間の女性とは異なる存在物になることによる動的な誤配=攪乱。これはアニメーションによる誤配がもたらすジェンダー・トラブルだと言えます。そこでは、現実の人間に関するジェンダー規範を参照しながらも、その規範の再生産を挫くという現象が起こっているのです。そして情報の誤配や存在論の変容は欲望や知覚にも変化をもたらします。それによって可能となるのが二次元性愛なのです。

 この例では、女性性のステレオタイプに対する欲望は、ある意味では二次元という領域へと「再生産」されていると言えるかもしれません。ですが、それは三次元の領域での再生産ではないのです。このような、再生産の宛先の誤配が起こるからこそ、二次元の女性キャラクターを欲望しつつ、生身の女性を欲望しないというセクシュアリティが存在できるのです。言い換えれば、ジェンダー規範が二次元の領域へ「再生産」されることを、三次元の領域(生身の男性/女性)への再生産だと短絡してしまうと、二次元性愛の存在を説明できなくなってしまうのです。そのような短絡は、まさに二次元と三次元の存在論的な違いを否定し、二次元性愛の存在を抹消する、対人性愛中心主義的な発想にほかなりません。

 同じ問題は、二次元の女性キャラクターへの欲望だけでなく、二次元の男性キャラクターへの欲望についても生じます。たとえば、いわゆる「オレ様」キャラと呼ばれるようなタイプの男性キャラクターを愛好する人々は、「オレ様」的な態度をとる現実の男性を同じように好んでいるわけではありませんし、「オレ様」的な態度の「男らしさ」を現実において肯定しているわけでもありません。ですが二次元と三次元という存在論の違いを否定すると、このことが理解できなくなってしまいます。こうした男性キャラクターを好む人はとくに女性に多いですが、まさにそうした女性たちに対する偏見をもたらしかねないのです。このような女性たちのあり方を適切に理解するためにも、二次元であることの意味を真剣に受け取る必要があると言えます。

 ただし「誤配の可能性が常にある」からといって、「必ず誤配が生じる」わけではありません[18]。誤配は確率的なものであり、誤配が起こる確率は状況によって変わります。そして私たちの社会では、対人性愛中心主義的な言説や思い込みが根強く存在しており、それによって二次元性愛の誤配が抹消されています。対人性愛中心主義は、まさに非対人性愛的な誤配の可能性を抹消する権力だと言えるのです。実際、対人性愛中心主義はフーコーの言う「セクシュアリティの装置」として理解できるのですが、その話をする前に、フィクトセクシュアルや二次元性愛が周縁化される具体的な仕方について説明したいと思います。

[1] キャラクターの存在論と表現論を切り離すことはできず、言い換えればキャラクターの「実体」とその「表象」を別個のものとして扱うことはできません。ちなみに、「表象」と「表象される対象」との間の存在論的区分を前提とする発想に対しては、カレン・バラッド(Barad 2003)が理論的な批判を行なっています。

[2] これはジュディス・バトラーが「パフォーマティヴィティ」と呼んだ性質と合致しますし、マンガ表現論からもキャラクターの内面性をパフォーマティヴなものと捉える研究(岩下 2013)が提起されています。

[3] ただし1つだけ、バトラー的なパフォーマティヴィティとは異なる点があります。バトラーが論じていたのは、人間が自らの行為を通して自己(のジェンダー)を構築することです。しかし私が説明しているのは、絵や記号という人間の身体以外の物質的要素が介在しつつ、かつ自分自身とは異なる存在を作り出す実践です。言い換えれば、非人間的アクターのエイジェンシーが介在する、非‐自己の構築です。この意味でも、二次元キャラクターの構築をめぐるパフォーマティヴィティは、バトラーよりもバラッド的なポストヒューマン的パフォーマティヴィティとして捉えるほうがよいと思います。

[4] シルヴィオによれば、「パフォーマンスは、外部のモデル(役割やイメージ)から性質を取り入れ、身体の媒介(発話やジェスチャーなど)を通してその性質を表現することを通して、社会的自己(個人的あるいは集団的アイデンティティ)を構築すること」です(Silvio 2019: 18)。これに対して「アニメーションとは、創造、知覚、相互作用の行為を通じて、人間として認識される性質――生、魂、力、エイジェンシー、志向性、人格など――を自己の外側と感覚的環境に投影することによって、社会的他者を構築すること」です(Silvio 2019: 19)。

[5] ただしシルヴィオはバトラーをパフォーマンスのパラダイムの論者と位置づけており、パフォーマティヴィティの理論をアニメーションから切り離しているきらいがあります。一例として、シルヴィオはパフォーマンスが身体化(embodiment)であるのに対して、アニメーションは物質化(materialization)だとしています(Silvio 2019: 46)。ですがバトラーのパフォーマティヴィティはまさに身体の物質化を説明するものですし、それを引き継いだのがバラッドです。パフォーマンスとアニメーションを対置するよりも、アニメーションをポストヒューマン的パフォーマティヴィティの一例と捉えるほうが理論的には有益だと思います。

[6] こうした特徴は、二次元以外の虚構的キャラクターにもある程度当てはまる可能性はあります。

[7] 西洋近代的な存在論とは、フィリップ・デスコラの言う「ナチュラリズム」のことです。

[8] ただしここで言う人格は、法学的な「人格」概念とも哲学・倫理学的な「人格」概念とも異なる、という点に注意しておいてください。ここで言う人格は、内面性や魂と言い換え可能な概念です。事実のレベルでも、二次元キャラクターを人格として知覚するということは、二次元キャラクターを人間と同じ仕方で扱うことを必ずしも意味しません。デスコラが説明しているとおり、ある存在者を「事物ではなく人格とみなすこと」は、その存在者とどのような関係を結ぶかについて「予断を下すことを許容するものではまったくない」(Descola 2005=2020: 166)のです。また規範のレベルでも、二次元キャラクターを人格として知覚するからといって、二次元キャラクターを人間と同じ仕方で扱うべきだという規範が成り立つわけでもありません。さらに言えば、そもそも二次元キャラクターに人格を帰属させなければならないというわけでもないのです。

 人間と二次元キャラクターは同じ仕方で存在しているものではありませんから、そもそも同じ仕方で扱うことができないところもありますし、同じ仕方で扱う必要もありません。「人間」に近い仕方でキャラクターを取り扱っているから望ましい、あるいは「人間」とは異なる仕方でキャラクターを扱っているから望ましくない、といった価値判断は、人間を基準とする価値判断を不当に普遍化するものだということに注意してください。

[9] たとえば、二次元キャラクターを「キャラとしてではなく人間として」愛しているのだ、と語る人がときどきいます。ですがこうした人は、決して二次元キャラクターが生身の人間として実在していると思い込んでいるわけではありません。こうした人々の言わんとしていることは、二次元キャラクターが文字どおりには人間ではないことは承知のうえで、自分の愛している対象を人格として知覚している、ということだと言えるでしょう。

[10] 理論的に言えば、誤配はシニフィアンあるいはシンボルの物質性に起因するということになります。

[11] 東はこの例として、デリダの『グラマトロジーについて』に出てくる判じ絵に言及しています。

[12] 二次元に対する指向を「第三の性的指向」と捉えるべきだという議論は、少数ながらすでになされています(Miles 2020)。

[13] これまでの研究でも、やおいにおける「美少年」やロリコンにおける「美少女」が(生身の)男性とも(生身の)女性とも異なる「第三のジェンダー」であると示唆されることがありました(McLelland 2005; Galbraith 2011)。ただし二次元の男性/女性キャラクターを「第3のジェンダー」と呼ぶのは正確ではないと思います。おそらく、二次元の男性キャラクターは「男性ではないが、男性でないわけでもない」、二次元の女性キャラクターは「女性ではないが、女性でないわけでもない」、と言うべきでしょう。

[14] 背景として、ラカンの理論について説明しておきます。ラカン精神分析において、想像界象徴界現実界という三つの区別を提示します。ひとことで言うと、想像界はイメージの領域、象徴界シニフィアン(とりわけ言語)の領域、現実界はイメージや言語の外側にある領域です。言語の体系は社会的に共有されたルールですから、象徴界は規範の領域でもあります。また現実界というのは、イメージすることも言語化することもできない、いわば「思考不可能」なものの領域です。そして象徴界というシニフィアンの体系の基盤となっている、唯一の根源的なシニフィアン、それがファルスです。デリダの言葉を借りれば、ラカンの理論においてファルスは「超越論的シニフィアン」や「特権的シニフィアン」だと言えます。

 ただしラカンの思想は時期によって変化があり、とりわけ後期ラカンにはファルス中心主義を相対化する契機があるようですが、ここではラカン解釈には立ち入らないことにします。

[15] そしてファルスを相対化することは、象徴界の基盤を崩すということでもあり、それゆえ想像界象徴界の区別や象徴界現実界の区別を問い直すことにもなります。そして想像界象徴界の区別を相対化するということは、イメージとシンボルの区別の相対化でもあります。そのため、「描かれたキャラクターを、一方でイメージ(絵)として、他方でシンボル(人間を表す記号)として処理」するということは、まさに想像界象徴界の区別を問い直している営みなのです。

[16] たとえば『ジェンダー・トラブル』のラカン批判は、ファルス中心主義的な図式のもとでは同性愛的欲望が「不可能なもの」として現実界に追いやられてしまうと指摘しつつ、象徴界の規則は普遍的なものではなく文化的要素に依存しているのだと論じるものです。また『問題=物質となる身体』では、超越論的シニフィアンとしてのファルスの特権的地位が実は想像的効果によって支えられているのだと指摘し、想像界象徴界の区別を疑問に付しています。そしてこのようなラカン批判は、ファルスもまた言説を通じて遡及的に構築されるという主張です。つまりバトラーは「ファルスのパフォーマティヴィティ」による変容の可能性を論じているのです(Salih 2002=2005: 150)。それゆえ、アニメーションによる誤配はバトラーのパフォーマティヴィティと同じ意味で攪乱的だと言えます。

[17] たとえば、女性らしい振る舞いを大袈裟に演じることによって、女性らしさを批判的に問い直す実践が、バトラー的なパフォーマティヴィティによる攪乱の例です。

[18] バトラーも留保しているように、ファルスを相対化する策略もまた「規範的要求(……)から決して完全に自由ではない」(Butler 1993=2021: 116)のです。

続き

【前編】フィクトセクシュアルから考えるジェンダー/セクシュアリティの政治【Fセク入門】

この記事は、2023年8月23日に台湾で行われた講演「フィクトセクシュアルから考えるジェンダーセクシュアリティの政治」の原稿の全文です。フィクトセクシュアルに関する議論の入門テクストとしてご活用ください(前編中編後編の三分割で掲載しています)。

なお、同じ文章のPDF版を↓のリンク先で公開しておりますので、お好きな方をご覧ください(※論文や記事などで引用する場合はPDF版を参照してください)。

1 はじめに

 みなさまこんばんは。本日はご参加いただきまことにありがとうございます。また、このような機会をつくってくださった廖希文さま、通訳の小松俊さま、そして企画・運営をしてくださった、女書店さま、臺大御宅研究讀書會さまに、深くお礼申し上げます。

 本日は、フィクトセクシュアルの観点からフェミニズムクィアの運動や研究にどのような示唆をもたらすことができるか、という問いを中心に、フィクトセクシュアルに関する調査と理論的研究の知見をお伝えしていきたいと思います。時間の都合上、注釈は読み上げられませんが、細かい理論的背景や関連情報などを補足していますので、必要に応じてご覧ください。

 1.1 用語の確認

 まずは用語の確認をしておきます。フィクトセクシュアルとは、架空のキャラクターへ性的に惹かれるセクシュアリティを表す造語です。具体的には、①「性愛」や「恋愛」として一般的に想定される営みを架空のキャラクターと行いたいと感じること、もしくは②生身の人間への欲望とは異なるものとして架空の性的表現への欲望を経験すること、を表す言葉として、日本では用いられています。架空のキャラクターへ恋愛的に惹かれることを表す語彙としては、フィクトロマンティック(fictoromantic)が用いられます[1]

 フィクトセクシュアルはときどき「二次元性愛」と訳されることがありますが、これはフィクトセクシュアルの訳語としては正確ではありません。というのも、「二次元」文化は創作文化のうちの特定のジャンルであり、イラストや小説などであっても必ずしも「二次元」表現とはみなされないからです。

 しかしながら、単にフィクションであるということだけでなく、二次元であるということが、自身のセクシュアリティにとって重要な意味を持つという人もいます。架空の人間に惹かれるというよりも、むしろ二次元キャラクターというノンヒューマンに惹かれるセクシュアリティです。私の主な研究テーマはこういったセクシュアリティです。こうした人々のなかには、二次元キャラクターのみに性的に惹かれる人もいますし、二次元と三次元の両方に惹かれつつも両者を別カテゴリーの存在として欲望する人もいます。このような、人間とは異なる存在として二次元キャラクターを欲望するセクシュアリティを、私はこれまで「二次元をめぐる非対人性愛」と呼んでいましたが、以下では縮めて「二次元性愛」と呼ぶことにします。

 1.2 フィクトセクシュアル・アイデンティティとフィクトセクシュアル・パースペクティブ

 ここまでの説明に対して、なぜわざわざフィクトセクシュアルやフィクトロマンティックと名乗るのか、なぜそのような言葉を使う必要があるのか、と思う方もいると思います。その理由は大きく2つあると考えています。ひとつは、架空の対象をめぐる経験や欲望や情動が自身の性的アイデンティティと結びついていることを示すため。そしてもうひとつは、架空の性的表現をめぐる欲望や実践についてクィア・ポリティクスの文脈で捉えるべきだと強調するためです。

 まずアイデンティティとしてのフィクトセクシュアルについてですが、これは自分が何者であるかを説明するためのラベルです。ラベルがあることによって、自分自身が何者であるかをある程度説明できるようになります。また、言葉があることによって、似たような悩みや経験をもっている他の人とつながり、お互いの状況について語り合うこともできるようになります。つまり同じようなセクシュアリティの人とつながり、コミュニティを作ることができるのです。さらに、フィクトセクシュアルというラベルがあることによって、そのようなセクシュアリティの人が存在するのだということを公に示すこともできます。

 このように、アイデンティティのラベルとしてのフィクトセクシュアルは、自己理解や自己呈示のツールだと言えます。なのでフィクトセクシュアルという言葉は、特定の人物や団体が「客観的な定義」を決めるようなものではありませんし、また第三者が「診断」するものでもありません。また、架空の対象へ性的に惹かれる人や、架空の性的表現を愛好する人が全員「フィクトセクシュアル」と名乗らねばならない、というわけではありません。フィクトセクシュアルと名乗るか否かは、それぞれの人が自分にとってしっくりくるかどうか、自分のあり方をどう社会に呈示したいかで決めればよいのです。

 アイデンティティの論点に加えて、クィア・ポリティクスの論点として、フィクトセクシュアルを周縁化する構造的問題があります。それが対人性愛中心主義です。対人性愛中心主義とは、生身の人間へ性的に惹かれることを「正常」なセクシュアリティとみなす社会規範です。この対人性愛中心主義は、異性愛規範や性別二元論、あるいはアセクシュアルを周縁化する強制的性愛などとも密接に結びついています(この点は後半で説明します)。つまり、対人性愛中心主義批判というフィクトセクシュアルの観点(fictosexual perspective)からの問題提起は、フィクトセクシュアルだけでなく他のマイノリティやマジョリティとも関わるものなのです。

 ここまでの内容を整理しましょう。フィクトセクシュアルとは、アイデンティティであると同時に、政治的なパースペクティブでもあります。そして両者はいずれも、架空のキャラクターや架空の表現に関する性的欲望や惹かれについて、セクシュアリティの政治に関する文脈で捉えるためのものです。より具体的に言えば、生身の人間との性愛という対人性愛には還元できない、独自のセクシュアリティであることを強調するものです。

 そのため、フィクトセクシュアルの立場から提起される論点は、たとえばフィクトセクシュアルを自認しない「オタク」や「夢女子」などにも開かれていますし、もちろんオタクでない人にも開かれています。そのことに留意しながら、これからの議論を聞いていただけますと幸いです。

2 二次元をめぐる欲望や実践

 ここまではフィクトセクシュアルという言葉に注目してきましたが、ここからは人々の欲望や実践について議論していきます。とくに私の研究領域である二次元性愛についての議論になりますが、私はこれまで「二次元の性的表現を愛好しつつ、生身の人間へ性的に惹かれない」人に対するインタビューを行ってきましたので、まずは事例をもとに説明していきます。

 二次元性愛の立場から言えるのは、二次元への欲望は人間に対する欲望ではないということです。たとえば、「キャラクター性愛者」や「フィクトセクシュアル」を自認している方は、タレントなどの生身の人間には性的・恋愛的な関心が向かず、「絵じゃないとダメ」だと語っていました。こうしたセクシュアリティにとっては二次元と三次元の違いが重要なのだということが分かるかと思います。

 とはいえ、二次元への欲望と三次元(生身の人間)への欲望が分離しているという人は、二次元のみに惹かれるという人だけにかぎったことではありません。むしろ従来の「オタク」論でよく強調されていたのは、二次元にも三次元にも惹かれるものの、それぞれの惹かれが乖離している人の存在です。斎藤環はこのことを、「オタク」は「『欲望の見当識』をやすやすと切り替えている」と説明しています(斎藤 2000: 53)。このような「オタク」の特徴を、斎藤は「多重見当識」と概念化しました。ちなみに「見当識」は精神医学の用語ですが、英語だとorientationです。多重見当識は、現象としても用語としても、まさに(性的)「指向」を複数化するものだと言えます[2]

 この点に関して、女性の二次元性愛について示唆的な指摘をしているのが守如子です。守は『女はポルノを読む』という著作のなかで、「男性向けポルノコミックを読む女性読者にとって、「男性向けポルノコミックは男性が描く“疑似女性”であるから、自分とは切り離された別のものとして見ることができるので、ファンタジーとして受け止めやすい」」場合があると示唆しています(守 2010: 192)。二次元の女性キャラクターは「疑似女性」であり、生身の人間の女性とは異なるものとして受容されうるということです[3]

 二次元と三次元が存在論的に異なるカテゴリーであると考えれば、女性読者が二次元の女性キャラクターを自分と「同じ」カテゴリーの存在者として認識するとはかぎらない、それゆえ「『生身の人間の女性』と『二次元の女性キャラクター』は『同性』である」という命題は決して自明ではない、ということも理解できるかと思います。

 ここまでは主に性的欲望についての議論でしたが、二次元キャラクターに恋愛感情を抱く人や、あるいは親密関係を志向する人もいます。今のところ法的には二次元キャラクターと婚姻関係になることはできませんが、結婚式というイベント自体は、結婚式場を借りたり企画を組んだりすれば、法制度とは関係なく行うことができます。そのようにして二次元キャラクターとの結婚式を行う人々はいます。

 こうした人々のなかには、「同性」のキャラクターと結婚している人もいます。ただ、「同性」キャラクターと結婚している人は、フィクトセクシュアルのなかでもさらに少数ですので、なかなか可視化されにくい状況です。

 ところで、二次元キャラクターとの関係というのは、人間からキャラクターへの一方向的なものだと思われるかもしれません。キャラクターに恋愛感情を抱いている人々のなかにも、キャラクターと双方向的なコミュニケーションはないという人はいます。ですが二次元キャラクターとの関係が双方向的ではありえない、と考えるべきではありません[4]

 架空の対象とのコミュニケーションというと、なにか特殊な行動だと思われるかもしれません。ですが、たとえば創作活動のなかでも、マンガや小説を描き進めていくうちに、もともと考えていたプロットからキャラクターが逸脱して、いわば「キャラクターが勝手に動く」ということは珍しくありません[5]。架空のキャラクターとの関係には創作活動と連続的な側面もあるのではないかと思います。

 この点と関連しますが、二次元キャラクターと結婚式を行なった方々は、著作権者からの許諾を取ったり、そのキャラクターに関する二次創作ガイドラインを確認したりしています(近藤編 2022)。架空のキャラクターは人間とは異なる仕方で存在していますので、適用すべき倫理にも人間同士の関係とは異なるところがあります。今後の課題ですが、こうした人々の営みについて、より詳細な研究が必要だと思います。

 他方で、二次元キャラクターとの双方向的な関係を望まない人や、三次元の自分と二次元キャラクターとの間に「次元の壁」があることをポジティブに捉えている人もいます。たとえば、他者へ性的に惹かれず、性的関係を持ちたいと思わないものの、自分が登場しない性的空想や性的表現を愛好したり、自慰をしたりすることはある、というセクシュアリティがあります。これはアセクシュアル・コミュニティで「エーゴセクシュアル」(aegosexual)と呼ばれています。「二次元の性的表現を愛好しつつ生身の人間へ性的に惹かれない」人々のなかには、エーゴセクシュアルな人もいて、そうした人にとっては二次元と三次元の間の「断絶」がむしろ積極的な価値を持っているのです。

 このことは、現実であれば嫌悪感を抱く内容でも二次元なら楽しめるという話とも関わります。実際にはやりたくない実践や、そもそも現実では物理的に不可能な内容であっても、二次元であれば作品を作ったり愛好したりできる場合があるのです[6]。これは対人性愛中心主義を問い直すうえでも重要なポイントです。このような、キャラクターとの「断絶」が持ちうる意義を取りこぼさないよう気をつけなければなりません。

[1] フィクトセクシュアル/フィクトロマンティックは、アセクシュアル/アロマンティックのマイクロラベルとして用いられることがあります。この場合は、「現実の人間へ性的/恋愛的に惹かれず、架空のキャラクターのみに性的/恋愛的に惹かれる」という意味です。これはアセクシュアル/アロマンティック界隈で使われることのある用法です。

 ただしフィクトセクシュアル/フィクトロマンティックの人々が必ずAro/Aceとしてのアイデンティティを持っているわけではありません。架空の対象ではあれ、まさに性的あるいは恋愛的惹かれを経験しており、自分がアセクシュアルやアロマンティックだとは感じられない、という人ももちろんいます。さらに、生身の人間と架空の対象のどちらにも性的惹かれを感じる人もいます。Aro/Aceのマイクロラベルとは異なる用法もある、ということに注意してください。

[2] ただし斎藤の精神分析的な理論はラカンに大きく依拠しており、ラカン的な性別二元論の図式を前提としている点で問題含みなものではあります。たしかに斎藤も「男性向け」ジャンルと「女性向け」ジャンルの区分が曖昧化しつつあるという現象に言及してはいますが、しかし理論の面では性別二元論が揺らぐ可能性を組み込めていないのです。とはいえ「多重見当識」概念はラカンに由来するものではありませんし、また斎藤は「日常的な性生活と、想像上の性生活とが完全に乖離」していることについては、男性オタクだけでなく女性オタクにも当てはまると論じています(斎藤 2003: 24)。多重見当識=複数的指向(multiple orientations)という概念はクィア理論にも積極的に引き継いでいく価値があると思います。

[3] ただし守はこのことを単に「読み方」の多様性として論じており、いわば記号の解釈の多様性として捉えています。これに対して、人間ではない二次元キャラクターという存在への欲望は、記号解釈ではなく存在論の問題です。守の研究では、二次元と三次元という存在論の違いが捉えられておらず、結果的に対人性愛と異なるセクシュアリティがあることが見落とされています。そしてこれは、二次元の性的表現をめぐる多くの議論が陥っている問題でもあります。この問題を乗り越えるための理論については、のちに説明したいと思います。

[4] たとえば、「想像のなかで相手とやり取りする」という「脳内会話」や、「キャラクターに対するメッセージを書き、それに対する相手の応答を(そのキャラクターになりきって)書く」という「交換日記」などのような仕方で、愛するキャラクターとコミュニケーションをしている人もいます。

[5] フィクトセクシュアルに関する研究ではありませんが、作家に対する調査から、自分の書いたキャラクターが自分に話しかけてきたという経験のある作家が少なくない、と指摘している研究もあります(Foxwell et al. 2020)。

[6] その例として、「オタク」論ではよくロリコンショタコンが挙げられてきました(斎藤 2003; Galbraith 2011)。繰り返し指摘されているように、未成年の二次元キャラクターを性的あるいは恋愛的に愛好している人は、生身の人間の児童を欲望していない人が大多数であり、かれらはペドフィリアではないのです。このほかにも私の調査では、「妹もの」のラノベやマンガを愛好しつつも「現実の近親相姦」には嫌悪感を覚えると語っている男性がいました。また女性の場合でも、暴力的な性描写でも「フィクション」だから楽しめるという人や(守 2010: 114)、逆に「絵がリアルすぎてこわい」と感じる人がいます(守 2010: 121)。

続き

【ウェブ上で読める】フィクトセクシュアル関連リンク集(随時更新)

★おすすめの情報源

松浦 優 (Yuu Matsuura) - フィクトセクシュアルから考えるジェンダー/セクシュアリティの政治 - researchmap

フィクトセクシュアルおよび非対人性愛について、フェミニズムクィアの文脈での議論がまとめられています。学術的な内容ですが、講演録なので「です・ます」調の分かりやすい解説になっています。

ネットで読めるフィクトセクシュアル・非対人性愛情報リンク集(仮)

komorikiliさんがまとめたリンク集ページです。ウェブメディアの記事や当事者のブログなども含めて、数多くのウェブサイトが挙げられています。

非現実の王国|台湾Fセク集散地(非現實國度|台灣紙性戀集散地)

フィクトセクシュアルの立場からの問題提起や、関連する研究についての紹介が掲載されています。台湾のフィクトセクシュアル研究者・アクティビストの廖希文(SH Liao)さんが運営しているページで、繁体字・日本語・英語の3ヶ国語で書かれています。

不可視な世界 - はてなブログ

廖希文さんの日本語ブログです。台湾でのフィールド調査をはじめ、フィクトセクシュアルに関する(とくに人類学的な)議論が掲載されています。

全文ウェブ公開されている学術論文

日本語

日常生活の自明性によるクレイム申し立ての「予めの排除/抹消」――「性的指向」概念に適合しないセクシュアリティの語られ方に注目して

アニメーション的な誤配としての多重見当識――非対人性愛的な「二次元」へのセクシュアリティに関する理論的考察

対人性愛中心主義批判の射程に関する検討――フェミニズム・クィアスタディーズにおける対物性愛研究を踏まえて 

グローバルなリスク社会における倫理的普遍化による抹消――二次元の創作物を「児童ポルノ」とみなす非難における対人性愛中心主義を事例に

英語

Sexual fantasy and masturbation among asexual individuals: An in-depth exploration 

Fictosexuality, Fictoromance, and Fictophilia: A Qualitative Study of Love and Desire for Fictional Characters

中国語

紙性戀處境及其悖論:情動、想像與賦生關係