【中編】フィクトセクシュアルから考えるジェンダー/セクシュアリティの政治【二次元であることの意味】

※前編はこちら↓をご覧ください。

3 二次元性愛の存在を説明するためのクィア理論

 3.1 問題=物質となる記号的身体

 ここまで二次元性愛の欲望や実践について見てきましたが、こうしたセクシュアリティはどのようにして可能になるのでしょうか。このことを、すこし理論的な話になりますが、説明していきたいと思います。そのために、まずは欲望の対象となっている「二次元」なるものについての考察から始めましょう。

 二次元キャラクターというのは、単なる「虚構の人間」ではなく、まさに二次元キャラクターという独自の存在物なのです。二次元キャラクターは情報集積として存在しています。これは東浩紀の説明ですが、二次元キャラクターは物語に存在依存しない「物語なしの情報の集合体」です。このような存在としての二次元キャラクターを、東は「大きな非物語」と呼んでいます(東 2001: 61-2)。さらに、個々のキャラクターの構成要素となる情報があり、その要素の総体を東は「データベース」と呼んでいます。こうした用語を借りれば、データベースのなかのいくつかの要素を組み合わせた「情報の束」が二次元キャラクターだと言えます。

 しかしながら、物質的な実体を欠いた「純粋な情報集積そのもの」が存在するわけではありません。二次元キャラクターが存在するためには、なんらかの仕方で「表現」されることが必要です。これは表現論の問題になりますが、二次元キャラクターは多かれ少なかれ非写実的な表現様式を含みつつ、絵や文章や音声などによって表現されると言えます。

 ただし厳密に言うと、「表現される」という説明は不正確です[1]。オタク論やマンガ表現論で繰り返し指摘されてきたように、絵や記号それ自体が二次元キャラクターの身体となる(そしてその絵や記号こそが欲望の対象となる)と捉えるべきなのです。これを理論的に言い換えれば、二次元キャラクターの肉体性は絵や記号として物質化されるのだ、と言えるでしょう。

 さらにキャラクターを「表現」することは、固定的な実体としてのキャラクターがあらかじめ存在していて、それを写し取る、というものではありません。マンガやアニメが分かりやすいですが、同じキャラクターを新たなコマや新たなシーンで描くことによって、そのキャラクターの新たな一面が生み出されます。つまり情報集積としてのキャラクターは、表現されることによって遡及的に構築されるものなのです[2]。つまり二次元キャラクターは表現行為を通してパフォーマティヴに構築されるのです[3]

 そして二次元キャラクターの存在をとらえるうえで参考になる理論が、テリ・シルヴィオの「アニメーション」概念です。シルヴィオはパフォーマンスのパラダイムで説明できないことがらがあると指摘したうえで、パフォーマンス/アニメーションという対概念を提示します[4]。詳しくは注に書いていますが、シルヴィオのアニメーション概念は、自己から切り離された非‐自己の構築、という特徴を上手く捉えています。このようなアニメーション実践によって二次元キャラクターは構築されるのです[5]

 以上をまとめると、二次元キャラクターは、アニメーション実践によってパフォーマティヴに構築され、絵や記号として物質化される、情報集積であると言えます[6]。二次元キャラクターは、絵や記号としての肉体性を有しつつ、同時に人間のような「魂」を帰属されているわけです。これは以前からオタク論でも指摘されていて、たとえば東浩紀はオタクの実践について、「キャラクターを、一方で文字や絵として扱いつつ、他方で『人格』とも見なす」と説明しています(東 2011: 92)。

 このような、記号的身体が内面をもつものとして受容されることは、しばしば「矛盾」と形容されてきました(大塚 2009)。しかしそれが「矛盾」とみなされるのは、西洋近代的な存在論を前提としているからです[7]。大雑把に言ってしまえば、二次元キャラクターは人間ではない(non-human)が、しかし私たちは二次元キャラクターに人格(personality)[8]を帰属することがある、ということなのです。「人間」と「人格」を別の概念と考えれば、論理的な意味での矛盾はないでしょう[9]

 3.2 《アニメーション》による誤配がもたらす攪乱

 それでは、二次元をめぐるセクシュアリティはいかにして存在可能となっているのでしょうか。このことを、東浩紀による誤配論と、ジュディス・バトラーのパフォーマティヴィティ論との比較を通して、クィア理論的に説明していきたいと思います。

 東とバトラーの共通点は、ともにデリダの思想から大きな影響を受けていることです。東はデリダの論文「真理の配達人」をもとに、文字や記号による意味伝達の失敗について考察しています。そこで東が注目するのは、「手紙は宛先に届かないことが常にありうる」(Derrida 1980=2022: 251)というデリダの理論です。手紙が届けば、そこに書かれた文字は記号として機能し、読み手に何らかの意味を伝えます。その記号は誤読される可能性もありますし、ある種の誤読を通じて別の文脈に流用的に引用される可能性もありますが、しかし誤読もまた手紙が届いたときに生じる現象です。これに対して、文字=手紙が届かないというのは、配達途中で紛失してしまったり、あるいはバラバラになってしまったりするような状況です。これが東の言う誤配です。このようなことが起こりうるのは、文字=手紙が単なる記号ではなく物質的なものだからです[10]

 そして文字=手紙が届かないことの例として、文字であるはずのものが文字として認識されない、ということがあります。文字は何らかの事物や意味を代理=表象する記号であるはずです。にもかかわらず、他の何かを指し示す記号だったはずの文字が、記号としての機能を失い、別の物になることがあるのです。このような誤配可能性は「シンボルがイメージとして、つまり文字が絵として受容されうる可能性」(東 2011: 109)だと言い換えることができます[11]

 二次元キャラクターという存在の成立とは、まさにこのような事態なのです。具体的に言えば、人間を指し示す記号だったはずの図像が、それ自体として新たなカテゴリーの存在物となること。これこそがアニメーションによる誤配です。このことを東は、「アニメオタク」が「描かれたキャラクターを、一方でイメージ(絵)として、他方でシンボル(人間を表す記号)として処理している」と説明しています(東 2011: 107)。これが、「絵」でありつつ「人格」(内面性)を有している存在としての二次元キャラクターが成立するという事態なのです。

 そして二次元キャラクターという新たなタイプの存在物は、ジェンダーセクシュアリティをめぐるあり方にも変化をもたらします。バトラーに倣ってこの変化を「攪乱」と言ってもよいでしょう。アニメーションによる誤配がもたらす攪乱とは、以前には存在しなかったカテゴリーの存在物をアニメーションによって構築することを通して、知覚の仕方や欲望のあり方を変容させることなのです。

 そのような誤配の例として、二次元性愛というセクシュアリティが対人性愛から独立したものとして成立することが挙げられます[12]。これに加えて、アニメーションはジェンダーに関する誤配ももたらしています。それが先ほど述べた、「『生身の人間の女性』と『二次元の女性キャラクター』は『同性』であるとはかぎらない」という現象です。もちろんこれは「生身の人間の男性」と「二次元の男性キャラクター」でも同じです[13]。こうしたセクシュアリティジェンダーの誤配は、単なる思考実験ではなく、実際に起こっているものなのです。

 そしてこの攪乱は、男/女や異性/同性という、二元論的な性的差異に疑問を投げかけるものです。このことは、バトラーと東がいずれもデリダ的な仕方で、ジャック・ラカンのファルス中心主義を批判しているということと関わっています。ラカンデリダも非常に複雑な理論を展開していますが、ここでは私の発表に関わる範囲に絞って、なるべく簡略化した説明をしたいと思います。

 ラカンの立場では、ファルスは男性/女性という性的差異を決定づけるものです[14]。そこでは、「ファルスをもつ」のが男性、「ファルスである」のが女性だとされます。ファルス中心主義は、この構図を絶対的なものとみなす考え方です。それゆえファルス中心主義は、男/女の性的差異を根源的な差異とみなす考え方であり、同時に男性中心主義的なものでもあります。

 このようなファルス中心主義を批判しているのが、先ほどの「文字=手紙は届かないことがありうる」というデリダの指摘なのです。ここでデリダの言う「文字=手紙」はそのまま「ファルス」に置き換えることができます。ラカンはファルスをただひとつの特権的シニフィアンとみなしており、そこでファルスは「分割不能であり、したがって破壊不能」とされていました(Derrida 1980=2022: 249)。しかし手紙の例と同じように、ファルスにも「シニフィアンの分割可能性」(Derrida 1980=2022: 309)が常にまとわりついています。つまりファルスもまた誤配可能性にさらされているのです。だからこそ、誤配によるジェンダーセクシュアリティの複数化が可能なのです[15]

 こうしたデリダ=東の誤配論は、ラカン批判という側面ではバトラーの理論と共通しています[16]。詳しくは注をご覧いただきたいですが、要するにバトラーが強調してきたのは、男/女という性的差異を基盤的なものとみなす立場が、同性愛やトランスジェンダーを予め排除したり(Butler 1990=1999)、人種の差異を切り捨てたりしてしまう(Butler 1993=2021: 248)、ということです。そしてここに私が付け加えるのは、次元の差異、つまり二次元と三次元の存在論的な違いもまた、性的差異を根源的なものとみなす発想によって抹消されるのだということなのです。

 他方で、バトラーのパフォーマティヴィティとアニメーションには違いもあります。バトラーが論じているパフォーマティヴな攪乱は、あくまで「意味づけ」や「規範の引用」という人間の実践によるものでした。これに対してアニメーションによる誤配は、非‐人間の物質性、具体的には絵や記号の物質性によってもたらされるものです。つまりアニメーションによる誤配は、意味のやり取りを行う人間だけの問題ではなく、そのやり取りに介在している情報伝達の回路において生じるものと言えます。それゆえ東浩紀の説明を借りれば、「『言葉が書き手の意図を裏切って別のことを意味してしまう』状況は(……)発話者と受話者とのあいだに広がるネットワークから分析される」(東 1998: 172)必要があるのです。

 この違いは、攪乱の生じ方にも違いをもたらしています。まずバトラーが注意を促すのは、表現やテクストの「意味づけなおしの可能性」(Butler 1997=2015: 109)です。そのためバトラーの理論は、規範的とされる言説資源をマイノリティがパロディ的に引用する主体的実践や、カルチュラル・スタディーズにおける能動的オーディエンス論と関連づけられてきました[17](e.g. 田中 2012)。

 これに対してアニメーションによる誤配は、「引用」したものを「意味づけなおす」というよりも、むしろ情報のネットワークや諸存在のネットワークを組み替えるのです。そしてこの誤配は、人間の意識的あるいは無意識的な主体性とは無関係に起こりえます。たとえば、かわいい美少女キャラクターを描いたり愛好したりする営みにおいて、かわいさを規範的な女性らしさとみなす価値観への批判は(意識的にも無意識的にも)企図されていないように見えます。ですが二次元キャラクターという存在者が成立している状況では、「かわいさ」を帰属する宛先が人間ではなく二次元キャラクターに変わります。ここにおいて、人間の女性にかわいさを要求する慣習が、二次元の女性キャラクターのかわいさを求めるという異なる営みへと変容しているのです。

 女性性のステレオタイプを素材としてアニメートされた対象が、人間の女性から引き剥がされて独立し、人間の女性とは異なる存在物になることによる動的な誤配=攪乱。これはアニメーションによる誤配がもたらすジェンダー・トラブルだと言えます。そこでは、現実の人間に関するジェンダー規範を参照しながらも、その規範の再生産を挫くという現象が起こっているのです。そして情報の誤配や存在論の変容は欲望や知覚にも変化をもたらします。それによって可能となるのが二次元性愛なのです。

 この例では、女性性のステレオタイプに対する欲望は、ある意味では二次元という領域へと「再生産」されていると言えるかもしれません。ですが、それは三次元の領域での再生産ではないのです。このような、再生産の宛先の誤配が起こるからこそ、二次元の女性キャラクターを欲望しつつ、生身の女性を欲望しないというセクシュアリティが存在できるのです。言い換えれば、ジェンダー規範が二次元の領域へ「再生産」されることを、三次元の領域(生身の男性/女性)への再生産だと短絡してしまうと、二次元性愛の存在を説明できなくなってしまうのです。そのような短絡は、まさに二次元と三次元の存在論的な違いを否定し、二次元性愛の存在を抹消する、対人性愛中心主義的な発想にほかなりません。

 同じ問題は、二次元の女性キャラクターへの欲望だけでなく、二次元の男性キャラクターへの欲望についても生じます。たとえば、いわゆる「オレ様」キャラと呼ばれるようなタイプの男性キャラクターを愛好する人々は、「オレ様」的な態度をとる現実の男性を同じように好んでいるわけではありませんし、「オレ様」的な態度の「男らしさ」を現実において肯定しているわけでもありません。ですが二次元と三次元という存在論の違いを否定すると、このことが理解できなくなってしまいます。こうした男性キャラクターを好む人はとくに女性に多いですが、まさにそうした女性たちに対する偏見をもたらしかねないのです。このような女性たちのあり方を適切に理解するためにも、二次元であることの意味を真剣に受け取る必要があると言えます。

 ただし「誤配の可能性が常にある」からといって、「必ず誤配が生じる」わけではありません[18]。誤配は確率的なものであり、誤配が起こる確率は状況によって変わります。そして私たちの社会では、対人性愛中心主義的な言説や思い込みが根強く存在しており、それによって二次元性愛の誤配が抹消されています。対人性愛中心主義は、まさに非対人性愛的な誤配の可能性を抹消する権力だと言えるのです。実際、対人性愛中心主義はフーコーの言う「セクシュアリティの装置」として理解できるのですが、その話をする前に、フィクトセクシュアルや二次元性愛が周縁化される具体的な仕方について説明したいと思います。

[1] キャラクターの存在論と表現論を切り離すことはできず、言い換えればキャラクターの「実体」とその「表象」を別個のものとして扱うことはできません。ちなみに、「表象」と「表象される対象」との間の存在論的区分を前提とする発想に対しては、カレン・バラッド(Barad 2003)が理論的な批判を行なっています。

[2] これはジュディス・バトラーが「パフォーマティヴィティ」と呼んだ性質と合致しますし、マンガ表現論からもキャラクターの内面性をパフォーマティヴなものと捉える研究(岩下 2013)が提起されています。

[3] ただし1つだけ、バトラー的なパフォーマティヴィティとは異なる点があります。バトラーが論じていたのは、人間が自らの行為を通して自己(のジェンダー)を構築することです。しかし私が説明しているのは、絵や記号という人間の身体以外の物質的要素が介在しつつ、かつ自分自身とは異なる存在を作り出す実践です。言い換えれば、非人間的アクターのエイジェンシーが介在する、非‐自己の構築です。この意味でも、二次元キャラクターの構築をめぐるパフォーマティヴィティは、バトラーよりもバラッド的なポストヒューマン的パフォーマティヴィティとして捉えるほうがよいと思います。

[4] シルヴィオによれば、「パフォーマンスは、外部のモデル(役割やイメージ)から性質を取り入れ、身体の媒介(発話やジェスチャーなど)を通してその性質を表現することを通して、社会的自己(個人的あるいは集団的アイデンティティ)を構築すること」です(Silvio 2019: 18)。これに対して「アニメーションとは、創造、知覚、相互作用の行為を通じて、人間として認識される性質――生、魂、力、エイジェンシー、志向性、人格など――を自己の外側と感覚的環境に投影することによって、社会的他者を構築すること」です(Silvio 2019: 19)。

[5] ただしシルヴィオはバトラーをパフォーマンスのパラダイムの論者と位置づけており、パフォーマティヴィティの理論をアニメーションから切り離しているきらいがあります。一例として、シルヴィオはパフォーマンスが身体化(embodiment)であるのに対して、アニメーションは物質化(materialization)だとしています(Silvio 2019: 46)。ですがバトラーのパフォーマティヴィティはまさに身体の物質化を説明するものですし、それを引き継いだのがバラッドです。パフォーマンスとアニメーションを対置するよりも、アニメーションをポストヒューマン的パフォーマティヴィティの一例と捉えるほうが理論的には有益だと思います。

[6] こうした特徴は、二次元以外の虚構的キャラクターにもある程度当てはまる可能性はあります。

[7] 西洋近代的な存在論とは、フィリップ・デスコラの言う「ナチュラリズム」のことです。

[8] ただしここで言う人格は、法学的な「人格」概念とも哲学・倫理学的な「人格」概念とも異なる、という点に注意しておいてください。ここで言う人格は、内面性や魂と言い換え可能な概念です。事実のレベルでも、二次元キャラクターを人格として知覚するということは、二次元キャラクターを人間と同じ仕方で扱うことを必ずしも意味しません。デスコラが説明しているとおり、ある存在者を「事物ではなく人格とみなすこと」は、その存在者とどのような関係を結ぶかについて「予断を下すことを許容するものではまったくない」(Descola 2005=2020: 166)のです。また規範のレベルでも、二次元キャラクターを人格として知覚するからといって、二次元キャラクターを人間と同じ仕方で扱うべきだという規範が成り立つわけでもありません。さらに言えば、そもそも二次元キャラクターに人格を帰属させなければならないというわけでもないのです。

 人間と二次元キャラクターは同じ仕方で存在しているものではありませんから、そもそも同じ仕方で扱うことができないところもありますし、同じ仕方で扱う必要もありません。「人間」に近い仕方でキャラクターを取り扱っているから望ましい、あるいは「人間」とは異なる仕方でキャラクターを扱っているから望ましくない、といった価値判断は、人間を基準とする価値判断を不当に普遍化するものだということに注意してください。

[9] たとえば、二次元キャラクターを「キャラとしてではなく人間として」愛しているのだ、と語る人がときどきいます。ですがこうした人は、決して二次元キャラクターが生身の人間として実在していると思い込んでいるわけではありません。こうした人々の言わんとしていることは、二次元キャラクターが文字どおりには人間ではないことは承知のうえで、自分の愛している対象を人格として知覚している、ということだと言えるでしょう。

[10] 理論的に言えば、誤配はシニフィアンあるいはシンボルの物質性に起因するということになります。

[11] 東はこの例として、デリダの『グラマトロジーについて』に出てくる判じ絵に言及しています。

[12] 二次元に対する指向を「第三の性的指向」と捉えるべきだという議論は、少数ながらすでになされています(Miles 2020)。

[13] これまでの研究でも、やおいにおける「美少年」やロリコンにおける「美少女」が(生身の)男性とも(生身の)女性とも異なる「第三のジェンダー」であると示唆されることがありました(McLelland 2005; Galbraith 2011)。ただし二次元の男性/女性キャラクターを「第3のジェンダー」と呼ぶのは正確ではないと思います。おそらく、二次元の男性キャラクターは「男性ではないが、男性でないわけでもない」、二次元の女性キャラクターは「女性ではないが、女性でないわけでもない」、と言うべきでしょう。

[14] 背景として、ラカンの理論について説明しておきます。ラカン精神分析において、想像界象徴界現実界という三つの区別を提示します。ひとことで言うと、想像界はイメージの領域、象徴界シニフィアン(とりわけ言語)の領域、現実界はイメージや言語の外側にある領域です。言語の体系は社会的に共有されたルールですから、象徴界は規範の領域でもあります。また現実界というのは、イメージすることも言語化することもできない、いわば「思考不可能」なものの領域です。そして象徴界というシニフィアンの体系の基盤となっている、唯一の根源的なシニフィアン、それがファルスです。デリダの言葉を借りれば、ラカンの理論においてファルスは「超越論的シニフィアン」や「特権的シニフィアン」だと言えます。

 ただしラカンの思想は時期によって変化があり、とりわけ後期ラカンにはファルス中心主義を相対化する契機があるようですが、ここではラカン解釈には立ち入らないことにします。

[15] そしてファルスを相対化することは、象徴界の基盤を崩すということでもあり、それゆえ想像界象徴界の区別や象徴界現実界の区別を問い直すことにもなります。そして想像界象徴界の区別を相対化するということは、イメージとシンボルの区別の相対化でもあります。そのため、「描かれたキャラクターを、一方でイメージ(絵)として、他方でシンボル(人間を表す記号)として処理」するということは、まさに想像界象徴界の区別を問い直している営みなのです。

[16] たとえば『ジェンダー・トラブル』のラカン批判は、ファルス中心主義的な図式のもとでは同性愛的欲望が「不可能なもの」として現実界に追いやられてしまうと指摘しつつ、象徴界の規則は普遍的なものではなく文化的要素に依存しているのだと論じるものです。また『問題=物質となる身体』では、超越論的シニフィアンとしてのファルスの特権的地位が実は想像的効果によって支えられているのだと指摘し、想像界象徴界の区別を疑問に付しています。そしてこのようなラカン批判は、ファルスもまた言説を通じて遡及的に構築されるという主張です。つまりバトラーは「ファルスのパフォーマティヴィティ」による変容の可能性を論じているのです(Salih 2002=2005: 150)。それゆえ、アニメーションによる誤配はバトラーのパフォーマティヴィティと同じ意味で攪乱的だと言えます。

[17] たとえば、女性らしい振る舞いを大袈裟に演じることによって、女性らしさを批判的に問い直す実践が、バトラー的なパフォーマティヴィティによる攪乱の例です。

[18] バトラーも留保しているように、ファルスを相対化する策略もまた「規範的要求(……)から決して完全に自由ではない」(Butler 1993=2021: 116)のです。

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