【コラム】「純愛」や「結婚」は分かりやすいけれど

※この記事は2019年9月28日にウェブサイト『RAINBOW LIFE』へ寄稿したコラムの再掲です。再掲にあたって最小限の修正をしています。

「純愛」や「結婚」は分かりやすいけれど

日本の場合はマンガやアニメなどのコンテンツが広く浸透していますので、フィクトセクシュアルやフィクトロマンティックなどが可視化されやすいのではないか、と思われるかもしれません。ただ、この点については注意すべき論点があります。

話題になりやすいトピックの例としての「純愛」「結婚」

まず、架空のキャラクターへの性愛について話題になりやすいのはどのような人なのか、ということを確認してみましょう。

少々古い例ですが、本田透という評論家が2005年に書いた『萌える男』という本があります。そこで本田は、二次元のキャラクターへの「萌え」こそが「純愛」であり、恋愛至上主義の末裔であると主張しました。ただし本田のエッセイは半分ぐらい「ネタ」として書かれている面がありますので、本田がどれほど本気でこの主張にコミットしていたかは分かりません。それでも当時のオタク論としては一定の影響力があったようです。

また2008年には、「2次元キャラとの結婚を法的に認めて下さい」というネット署名活動があったようです(元の署名サイトはすでに消えているようですが、当時のネット記事を確認できます→記事はこちら

昨年も二次元キャラとの結婚式を挙げた人が話題になったことを考えると、キャラクターとの「結婚」は注目されやすいトピックだと言えそうです。

マジョリティの枠組みで理解できる人ばかりが可視化されるという問題

もちろん上に挙げた例のほかにも、話題になるトピックはあるかと思います。また上に挙げた人々全員が「フィクトセクシュアル」としてのアイデンティティを持っているともかぎりません。とはいえ以上の事例は、「架空のキャラクターを性的対象/恋愛対象とする」という説明からイメージされやすいものではないかと思います。

さて、上の事例に共通することは何でしょうか。それは、現実での性愛実践の語彙で説明できる、ということです。言い換えれば、上で話題になっているのはいずれもマジョリティの実践を捉えるための枠組みで理解できる事例だ、ということです。

言うまでもなく、キャラクターとの「純愛」や「結婚」をすること自体は悪いものではありません。しかしここで問題になっているのは、そうした実践を取り巻く社会的な認識の枠組みの方です。

「架空のキャラクターを性的対象/恋愛対象とする」という説明は、しばしば暗黙のうちに「“現実での性愛実践と同じように” 架空のキャラクターを性的対象/恋愛対象とする」のだと認識されることがあります。

ですが一口に「架空のキャラクターを性的対象とする」と言っても、「架空のキャラクターとセックスしたい」という人ばかりではありません。たとえば、「架空のキャラクターにしか性的に興奮しないが、自分がキャラクターとセックスしたいとは思わない」という人もいるわけです(「そんなの当たり前でしょ」と思う人もいるかもしれませんが、そこに想像が及ばない人も一定数いるようです)。しかし「純愛」や「結婚」などに比べると、こうした人々の語りが広がることはあまりありません。

マジョリティにとって分かりやすい人だけが可視化され、その「分かりやすい」イメージばかりが先行しているのではないか……。このような現象は、架空のキャラクターへの性愛にかぎらず、多くのセクシュアル・マイノリティについても生じることです。

性的なことがらに対する感覚や経験は、人によって大きく異なります。だからこそ、自分とは異なる人々について、自分の認識枠組みだけで捉えてしまっていないか、注意をすることが必要です。

補足:エーゴセクシュアルについて

ちなみに余談ですが、「自分の自己意識と性的対象が分離している」セクシュアリティのことを「エーゴセクシュアル」(Aegosexual)と呼ぶこともあります。あえて単純な例を挙げれば、「性的空想はするけれど、その空想の内容を自分が実際にやってみたいとは思わない」というようなセクシュアリティです。エーゴセクシュアルもまたアセクシュアルに関する議論のなかで提起された概念であり、広義のアセクシュアルアセクシュアルスペクトラム)として捉えられています。

(著:松浦優)